今週の説教

悪魔払いについて考える説教

「悪霊は退散した」          マルコ1:29-39

2月には例年だと節分の行儀が各地でありました。ことしはコロナの影響でどこも自粛していますが、こんな時こそ、鬼は外、福は内と叫びたいものですね。意味深いですね。もちろん、キリスト教では厄日とか迷信とかは信じていませんが、節分の行事は一つの文化遺産ですね。日本では鬼といいますが、聖書では悪霊とか悪魔として表現されています。さて、イエス様の受けた誘惑の記事を読みますと、「悪魔は離れ去った、すると、天使が来て仕えた」と書いてあります。これを日本風に書き変えたら、「鬼は外に逃げ、福の神が入って来た」となるでしょう。それはそうと、神の子イエス・キリストを恐れて悪魔が一時的に逃げたのであって、悪魔の存在が消えたわけではありません。悪魔は神の愛という真理に属していない(ヨハネ8章44節参照)と言われています。真実を無視してサタン(権威に反抗する者の意味)になってしまったわけです。わたしたちの周囲でも、やみくもに抗議して叫ぶ人の顔は、どこかサタンを彷彿させるものです。人間にはみなその可能性がありますので、他人事ではありません。しかし、神の子イエス・キリストは十字架につけられるときでさえ、そういう顔をしたことがなかったのです。無原罪ですから。無原罪ということは、鬼嫁とか鬼夫には決してならないことです。

福音書にある悪魔払いのできごとは、イエス様の伝道の初めの頃におこりました。面白いことに、仏教でも、お釈迦様が悟りを得たとたん、鬼どもがワンサカ攻めてきたのです。鬼とか悪霊は、聖者の存在が悔しくてそうがないのでしょうね。聖者ではない人は、すでに鬼に属していますから安全です(笑)。ところで、イエス様の故郷はガリラヤのナザレという丘の上の町であり、弟子たちはカファルナウムという湖畔の町の出身です。どちらの場所も訪問したことがありますが、個人的には、カファルナウムが好きです。日本の諏訪湖はさいきん汚染がひどいですが、ガリラヤ湖は同規模の湖で、浜辺などの水も澄んでいます。イエス様は、このカファルナウムという新しい町で人々と仲良くしていきます。シモン・ペトロの奥さんの母親が熱病にかかった時も、癒してあげました。高熱ということはマラリアだったかもしれません。ちなみに、ガリラヤ湖の北部に行った時に、そこはマラリア蚊の原産地だと言われました。ギリシア語本文では姑のようすを、「真っ赤に発熱している」という言葉であらわしています。ところが、イエス様が、やってきて、ペトロの姑の手をとって起こすと、見る間に熱が引きました。ここでは「熱は去り」という部分にアフィエーミという言葉が使われています。それは、病気を擬人化して、「去っていった」としていることからもわかります。つまり、サタンなのです。日本なら鬼です。姑はサタンの悪さである病気の虜になって、苦しみに束縛されていたが、イエス様が来て手を取ると、サタンが恐れて逃げ出し、健康が回復したということです。ある神学者は言いました。こうした、イエス様の癒しの陰には十字架がある。イエス様が救い主であるとは、苦しむ者の苦しみを負うものという意味です。その後、町中の人がペトロの家の前に集まりました。さらに聖書の記事を見ますと、悪霊はイエス様を知っていたとあります。悪霊の方が、一般の人より聡く、イエス様は救い主だと知っていて逃げたわけです。鬼は外、福は内とは少し方法論が違います。福の神が来たので、悪戯をする鬼は逃げ出したのです。これを楽しい子供のストーリーにしたのが、アンパンマンとバイキンマンですね。

この悪霊はギリシア語でダイモニオンであり、英語のデーモンです。旧約聖書では異教の神、新約聖書では、悪霊とか死者の霊です。イエス様が救い主としてこの世に来たのは、死の霊を追い出し、命を与えるためです。わたしたちの現代の伝道活動とイエス様の活動は違います。イエス様は講演会とか伝道集会とかはやりません。イエス様自身の伝道の始めは、病気の背景にある、死の力を追い出すためだったことを聖書は力説しています。コロナでも、表面は疫病でも、その内面は死の力だから恐ろしいのです。初代の弟子たちの記録である使徒言行録をみても「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」(使徒言行録2:43)、と書いてあります。弟子たちも、苦しんでいる人々に驚くような癒しの業を行ったことがわかります。死の力に対する勝利です。「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。」(使徒5:3)「わたしがなにかのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。」(第二コリント2:10以下)などとかかれていまして、弟子たちは常にサタンを意識していました。ルターもサタンの働きに敏感だったようです。自分を悩ますサタンにインク壺を投げたという逸話も残されています。サタンはずる賢く人の心を神から離す働きがあるからです。

旧約聖書のヨブ記にサタンの攻略に苦しむヨブの気持ちが書いてあります。「苦しみの日々がわたしを捕らえた。夜、わたしの骨は刺すように痛み、わたしをさいなむ病は休むことがない。」(ヨブ記30:17)これは神に依り頼むことが無意味となる苦しみだったのです。体の苦しみだけではないわけです。サタンの狙いどころは、人生を無意味に感じさせることです。絶望です。長いトンネルの中から出られないような辛い苦しみを負ったヨブは、神の戒めを聞きました。その時、「わたしは灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:6)と述べました。自分がサタンの誘惑に引き込まれていたからです。その時は、無自覚に他人を非難しや環境を非難していたことの誤りを知ったのです。わたしたちも同じです。他人を非難している顔は、鬼あるいはサタンです。その後、神はヨブを癒されました。み言葉が語られ、み言葉が心に入った時に、サタンは逃げざるを得なかったのです。サタンは聖者が来ても逃げます。聖なる言葉が来ても逃げます。そして、悪霊が退散したのでヨブは癒されたのです。わたしたちの場合なら、聖書の言葉が、ストン、と心に落ち、ああ本当にそうなんだと信じるだけで除霊されます。サタンはこうした信仰には怯えるのです。サタンの弱点です。

また、福音書には、夕方になって、人々は病人をイエス様のところに連れてきたと書かれています。田舎では明るいうちの方が行動しやすいはずです。その理由は、彼らがユダヤ人であり、安息日の規則、律法の教えを守っていたからです。つまり、安息日には、病人を運んだり治療してはいけないという厳しい規則があったからです。すると、ペトロの姑を癒したイエス様の働きは安息日の律法には反していたことお聖書は示しているのがわかります。これはあとで、イエス・キリストを憎む人々(サタンの手下)が彼を十字架につけた理由でもあります。35節以下には、イエス様が祈りと宣教を大切にされたことが書かれています。その癒しのパワーの秘密は祈りでした。どんなに長く苦しい日々が続いても、イエス様の祈りと宣教によって解決しない悩みはありませんでした。パウロたちも祈りの人でしたから、悩んだとは書いてありません。悩みは、サタンが用いる誘惑の常套手段でもあります。ルターも悩みそうになったので、サタンの働きを感じたのですね。悩みは、死への入り口であり、サタンの常套手段です。悩みを消すことはむずかしいですが、日々の生活に感謝していくと、悩みが減っていきます。感謝もサタンの苦手な点なのです。

わたしたちは現在、ペトロの姑のように熱では苦しんでいないかも知れない。しかし、罪という苦しみがあります。コロナもあります。アメリカでは平均寿命が下がるくらいに多くの犠牲者が出ています。マスクなんか必要ないと豪語したトランプ元大統領の顔も、どこかしらサタン的でした。それはそうと、わたしたちが生きている限り、さまざまな悪霊の攻撃や束縛は消えることはないでしょう。しかし、聖書はイエス様がこの世に来て下さり、十字架を背負ってくださり、悪霊の攻撃を自分で受けてくださったから、すべての問題は既に解決した、だから安心しなさいと宣言しています。

あのペトロの姑が苦しんだかもしれないマラリヤはマラ(悪いという意味)のラテン語と、アリア(空気)というラテン語の合成語だと言われています。つまり悪い空気です。そのように感染が広がるからでしょう。冬になると排気ガスで曇っていた北京の空が青くなったときがありました。公害は日本まで公害は広がっていました。善し悪しは別として、政府の権威で煤煙を出す工場を閉鎖し大気を浄化したからです。神はイエス様を来させたことにより、その権威ある贖いによって、この世を浄化するでしょう。悪霊は退散するでしょう。権威がなければ、いつまでも同じ状態です。コロナだって、2週間ほど外出禁止にすれば、収束するでしょう。また、悪霊の退散と言えば、アンパンマンの作者、やなせたかしさんはキリスト教の教えを漫画に生かして、バイキンマンを殺すのではなくいつも退散させていました。やなせたかしさんの語録にこうあります。「人生で何が嬉しいかというと人を喜ばせること。人を喜ばせて、自分も嬉しい。」「自分はまったく傷つかないままで正義を行うことは難しい。」「アンパンマンは世界一弱いヒーローだけど、自己犠牲の精神なのだ。」だから自分の顔をちぎって与えるのです。「わたしは天から降ってきた生きたアンパンマンである。」単なる善悪二元論は水戸黄門のドラマのようですが、アンパンマンの世界では、十字架的な弱さによってバイキンマンを退散させています。同様に、パウロも、自分は弱い時に強いと言いました。わたしたちも、自分の弱さを感じる時にこそ、神様から強さをいただけるのです。聖餐式では、パンを受けますが、「これはあなたを罪と死から解放するアンパンマンのほっぺただ」、といって渡したら笑う人もいるでしょうか。

それはともかく、わたしたちにもイエス様からの癒し受けることができます。鬼は外、福は内、つまり、福の神なるイエス様が、心に迎え入れることです。心の扉を開いて、「イエス様、どうかわたしの心の中に入って助けてください」と唱えるだけです。そのとき、鬼なるサタンは退散するのです。「見よ、わたしはドアの外に立って戸をたたいている、わたしの声を聞いて、開けるものがいれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をする。」(黙示録3:20)これこそ、悪霊が退散し、絶望から救われ、死の恐怖から救われる悪魔払いです。

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