「死者の復活」 ヨハネ3:13-22
イエス様は言いました、天に昇った人は誰もいない。一人の例外はメシアであって、天から降りてきた者である。それはイエス様の事でした。そして、話は出エジプトに至ります。イスラエルの民が砂漠で毒蛇に悩まされたとき、モーセが青銅の蛇を棒の先につけて高く掲げると災いが止んだように、メシアも十字架につけられて民の悩みを癒すというのです。
旧約聖書の民数記を見ると、エジプトでの奴隷状態から脱出したイスラエルの民の荒野での生活は苦しく、不便なものでした。まわりを見れば砂また砂。「パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力も失せてしまいます」、と人々は指導者のモーセに不平を言ったのです。自分たちに科せられた、いわば彼らの十字架を不満としたのです。彼らは思いました、エジプトの方がましだった。自分たちはモーセの「約束の地」という夢に騙されて、こんなひどい場所に来てしまった。モーセが悪いのだ。そこでの心理は、わたしたちにも共通することです。自分の置かれた苦しい境遇を、親のせいにしたり、会社のせいにしたり、自然環境のせいにしたりしやすいものです。
特にコロナの蔓延でそう感じる人も少なくないでしょう。しかし、そうした人々に、神は、更に苦しみを与え、毒蛇の被害で死ぬ人が増加したと書いてあります。常識的に考えると、何と冷酷な神だろう、ということになるでしょう。まさに当時の人々の状況がそうでした。人々は、蛇の大群の出現に怯えました。そこで彼らは、「神は食物を足りなくするだけでは気がすまず、蛇で我々を殺そうとしているのか」、と怨嗟の声をあげたのでしょうか。実は聖書を見るとそうではありません。あれほどモーセに不平不満をぶつけていた人々は、この蛇の襲撃に反省させられ、「わたしたちは主なる神とあなたを非難して罪を犯しました」、そう語ったのです。神への悔い改めです。これは大変な変化でした。それまでは足りない食料、足りなし水、足元に襲来する毒ヘビ、そのような地上のものを批判して不平不満を述べていたのです。
ところがここで心に大方向転換(悔い改めの本来の意味)が起こっています。そこで、神が与えた答えはなんと青銅の蛇でした。毒に対する特効薬ではありませんでした。ワクチンでもありません。それは、人々がもう見たくもないと思っていた毒蛇の模型でした。しかし、これを、悔い改めの象徴として、棒の先につけさせ、毒蛇に噛まれて死ぬしかない人がそれを見上げると、命が救わると、神が告げたのです。見たくもない恐ろしいものを見ることです。
最大の恐怖から目を背けないこと
それは見るのも恐ろしい十字架を見上げることと同じではないでしょうか。ナチス・ドイツや旧日本軍の残虐行為の写真なども残されていますが、とても直視できるものではありません。十字架はそれと同じです。殺されたのが自分の家族だったらどうでしょうか。それでも戦後、クリスチャンであった蒋介石は日本人を赦し無事に帰国させよと命じたのです。
過去の虐待を復讐という残虐行為で終止符をうたないこと
さて、この青銅の蛇は、やがて来る十字架の預言でもありました。この十字架にかけられた救い主を見上げる中でこそ救われると聖書は教えています。
罪無き者を殺す人間の悪の中に自分を見る事
使徒言行録をみますと、ペトロは普通のユダヤ人であって、食物の禁止事項を守っていました。例えばイカとかタコとかの鱗のない海の生物、豚のような蹄の割れた動物などは食べるのが禁止でした。ペトロにとっては見るも恐ろしい穢れたものでした。ところが神は、それらの恐ろしいものを大きな風呂敷のようなものにいれて天から降ろして、ペトロにこれを見て、屠って食べなさいと命令されたのです(使徒10:9以下)。自分が最も恐れるものを見るように神は命じたのです。これは青銅の蛇と同じではないでしょうか。また、これは、わたしたちにとっての人生の十字架、離別、死別、喪失、回復のない病、障害、激痛、屈辱などと同じではないでしょうか。また、それは自分の罪とも無関係ではありません。一番見たくないものを見なさい。それが十字架です。十字架のほかには救いはない。いや、考えによっては、十字架だけで救われるのです。汚れと罪と死の象徴である十字架が、実は死の死なのです。命の扉なのです。ですから、十字架は単なる魔除け以上のものです。
この点をパウロは詳しく述べています。「主イエス・キリストの十字架以外に誇るものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)十字架を罪の贖いとして信じる者は、神ご自身が罪を清め、すなわち神からの疎外を排除し、神に密接して生きる道を与えて下さるのです。
その次の個所は、小さな福音書とも呼ばれる、ヨハネ3:16です。神はこの世を愛された。よく見ると、愛には無条件の愛という言葉が用いられています。ギブ・アンド・テイクの愛ではありません。それに、重要なのは、「この世」という表現です。これにはギリシア語のコスモスが使われています。これは神から離れて腐敗している異教世界を示しています。驚くべき福音です。それは、以前のパウロのような暴力的な殺人者をも神は無条件で愛したという事です。十字架上でイエス様が隣の十字架につけられた犯罪者バラバに対して、イエス様が示した不条件の愛と同じです。
それだけではありません。神は最愛の息子、イエス・キリストを与え、彼を信じる者には、例外なく永遠の命を与えると約束したのです。信仰の重要さも教えられています。自動的に、無差別に救いを与えるのではありません。神から与えられた御子イエス・キリストの十字架が我が罪の身代わりのためだったと信じる者にのみ、永遠の命が与えられるのです。これは裁きのためではなく、救いのためです。救いは、イエス・キリストを通してのみ与えられます。他には道はありません。どんなに祈っても。どんなに慈善を尽くしても。どんなに聖書を読んでも。どんなに礼拝しても。どんなに熱心でも、イエス・キリストを救い主として信じる以外の救い(罪と死からの解放)の道はないのです。
イエス様は続けます。光なる救い主がこの世に来たのに、世の人は信じなかった。そして行いが神から離れている者は、光より暗闇を愛して、光のもとに来ない。本当にそうです。しかし、真理に立つものは光の方に来ます。そして、その人の働きが、実は、その人ではなく神によってなされたことが明らかにされるのです。
イエス様の十字架を見上げること、それは罪の象徴、サタンの象徴である蛇を見上げることです。つまり、愛の神が、イスラエルの人々をせっかく自由にしてエジプトから解放してくださったことを忘れ、他者を裁き、自分を裁き、感謝するより不満を言った罪、そして、不満に同調した罪、神以外の金の牡牛の偶像を作った罪、そこに神という愛と光から離れた自己中心的な人間の姿があるのを知るのです。神が遣わした指導者モーセに、人々が「神とあなたを非難して罪を犯しました」と言った気持ちがわかります。ルカ福音書にある放蕩息子のたとえでも同じように、「わたしは天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました」(ルカ15:18)という悔い改めの言葉が書いてあります。
確かに、人間は生涯過ちを犯しやすい存在です。荒野で毒蛇に囲まれているような死に定められた存在です。これから自由な人はいません。しかし、死に定められた存在であるわたしたちが死の象徴である蛇を見たら生きるのです。不思議です。死を恐れない時に、死はもはや拘束力を失うのです。わたしたちも死の象徴である十字架を見て、自分の罪を見つめること、その罪のために救い主が恐ろしい苦しみを受けられたことを見つめるのです。そこに死から命への転換があります。死者の復活というテーマは、聖書の原点です。これがわからなかったら聖書は役に立たない分厚い電話帳と同じです。聖書が伝えたいことは、解放の良い知らせです。これを福音といいます。「わたしがあなたを愛しあなたの苦しみの身代わりになったから。あなたは生きる。わたしは人を裁くためではなく、人を愛し、一人も滅びないようにするためにこの世に来た」とイエス様は語ってくださったのです。十字架は他者を裁き、自分を裁く罪の裁きの終わりのしるしです。宣教師の息子でもあり、自らも神学校で学んだ、ノーベル文学賞受賞者ヘルマン・ヘッセは言いました。「あなたは苦しみを愛しなさい。それに抵抗しない事。それから逃げない事。苦しいのはあなたが逃げているからです。」ここに、聖書の基本的神学が語られています。「あなたは十字架を愛しなさい。」十字架は罪の贖いであり、そこに死者の復活、わたしたちの命の道が示されているからです。
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