聖書研究

宗教改革では十分に把握できなかった本来の「信仰のみ」について語るパウロ

フィリピの信徒への手紙3章12節16節  文責 中川俊介

12節でもパウロの独白は続きます。ここでは冒頭に「否」という言葉をもってきて、決してそうではないと強調し、自分は何かを捕えたり、完全になっているのではないと断言します。「ピリピの集会の殉教者の中には、殉教を高く評価して、自分たちは救いの完成者であるあると考えて誇っていた者があった。」[1] ですから殉教者だけでなく、まさに殉教しようとしているパウロをも英雄視したり、神聖視する者がいたのかもしれません。しかし、パウロはあくまで弱い人間性に立ちます。そして、自分は何とかして獲得しようとして懸命に追及していると述べます。ただし、ここだけ読むとパウロが個人的に努力しているというような印象を強く受けます。「たった数節前で、パウロが義は働きによって得られるのではなく信仰によって得られる、と強力に主張しているのと矛盾しないだろうか。」[2] しかし、そうした個人努力の姿勢を否定するかのように、パウロは、自分がイエス・キリストに既に捕らえられているからそうなのだと記しています。やはり、個人の努力や熱意でそのように行っているのではないのです。義務でもありません。「クリスチャンを動かすものは何であろうか。命令と威嚇を伴った律法ではない。」[3] ここにも、キリストを知る喜びに始まり、キリストにおいて完結するパウロの信仰が色濃くあらわされています。不思議なことに、パウロの言葉に従えば、パウロは自分を捕えて下さったキリストを捕えようとして走っているのです。「それについて彼は、つぶやいてはいない、かえって疲れを知らない愛はどのように考えるかと思い、むしろ神の賜物のすばらしさの中で、神への全き奉仕に進む義務を見ているのである。」[4] それは不足感による探求なのではなく、喜びから喜びへと促される探究なのです。これは、11世紀の神学者アンセルムスが唱えた「知解を求める信仰」に通ずるものがあります。信じるがゆえに信じたいと思うのです。パウロもキリストの愛に満たされているがゆえにキリストを求めるのです。

13節では、例によって、わたしの兄弟たちよと優しく呼びかけます。そして繰り返して言います。自分自身は何かを勝ち取ったとはまったく思っていない。この場合の「思う」という言葉は、算定するという意味です。その背景を考えれば、フィリピ教会には、何かを成し遂げたと思った人々がいたのです。「彼らの多くが自己満足に陥っていた。」[5] ただ、パウロは後ろのものを全く忘れて前のものにむけて死力を尽くしているといいます。ここには細やかな文法的技法が用いられています。つまり対比です。そこで表現されているのは、固定や静止ではなく、動的な前進です。「過ぎ去ったことの影でおおわれないよう、神の恵みが私たちに、未来に向かって身を伸ばすことを備えて下さるのである。」[6] 確かにパウロの手紙には、過去の出来事に対する後悔の念とかは書かれていません。過去の過失への懺悔や、この世の事柄への諦念などもありません。まさに前向きです。「このようなことは、われわれ宗教改革の教えで養われた人間にとっては、ただ驚きである。」[7] いわば、宗教改革が十分に把握できなかった、信仰の積極性がここに語られているのです。それは、本当の意味で「信仰のみ」であり、天より賦与された信仰によってわたしたちはさらに前進させていただく可能性が約束されているのです。こうして、常に新しくパウロが求めているものは何でしょうか。「このゴールはイエス・キリストの完全な知識に達することである。」[8] それはまた、11節に書かれている復活の状態に達することと同義ではないでしょうか。パウロは差し迫っている死が恐ろしくてこう考えているのではないでしょう。むしろパウロは死を歓迎しているのかもしれません。そうではなく、パウロの切なる願いに見られるのは、救いの完成が復活にあり、キリストに達するという事ではないでしょうか。わたしたちは、ともすれば救われたからといって現状に満足しやすいものですが、何事にも完成という事があるのを改めて知らされます。パウロは、ですから、自己満足して救いの完成を忘れてしまったフィリピ教会の信徒たちへ、愛をもって呼び掛け、自分の生きざまをとおして、さらに前進することを奨励していると考えられます。それはまた、2千年後の現代を生きるわたしたちへの奨励でもあります。

その前進していくパウロの先方にあるのが、14節に書いてある目標です。これはゴールと訳されていることもあります。一つの到達点です。ここでもそれを獲得しようとして懸命に追及していると述べます。追及するという言葉は、走るという意味にも解釈されます。そして走りぬくのは、勝利者の栄冠を得るためなのです。「炎のランナー」というクリスチャンのオリンピック選手を主題にした映画がありました。これも栄冠を得るために世の中の非難をものともせずに信念をもって走りぬいた青年の実話をもとにしたものでした。ですから、パウロの言葉に映像的な表現が用いられているのが印象的です。それは、パウロがゴールに向かって死力を尽くして走りぬき、最終的に勝利者の栄冠を授かるというイメージでしょうか。そして、その栄冠こそ、パウロの定義によれば、イエス・キリストにおける上なる神の召命なのです。「この召しは人間の偉大さとか才能を何ら考慮せず、まさに卑しく、軽んじられ、無に等しい者を選ぶ。」[9] ここで、パウロは何故、目標が復活だと言わずに、神の招きにおける霊的自由だというのでしょうか。あるいは、これこそ、パウロ流に描写された復活なのでしょうか。他の解釈もあります。「彼にとっては、それはキリストの中に発見されるべきものであり、キリストこそ栄冠そのものだったのである。」[10] それはともかく、「彼にとっては、この個人的告白から直ちにピリピの人々に対する勧告を導き出すことが可能」[11]、だったと考えられます。

そして、やはり、15節で、パウロは成熟した人は誰でもこのことを考えましょうと勧めを行っています。この場合の成熟という言葉はギリシア語のテレイオスであり、当時の密教覚者を示すものでした。パウロはその言葉を敢えて用いて、キリスト教的観点の完成を教えています。「もし自分たちは仕上がっており、目標に達していると自分で思うならば、その時には、私たちは完全ではない。」[12] ルターも、クリスチャンの本質は、その人が到達したことの中ではなく、これから到達することの中にある、と述べています。また、この勧めの形式はパウロが教理的なことを述べた後で、実際の教会生活における指導に移る典型的なパターンです。それに教理といってもパウロが瞑想して考え出したものではなく、実際の信仰生活の中で、神の啓示を受けたものを旧約聖書に照らし合わせて解釈したものです。そして、もし人々が何か違ったことを考えているなら、神はこのことをも彼らに啓示して下さるといいます。「神に間違った方法で熱心に仕えようとしていた者も、やがて自分の過ちを示され、心を入れ替えたであろう。」[13] 啓示は平等なのです。パウロはが自分の考えではなく、ここでも神の啓示を第一としていることがわかります。「パウロは、われわれはひとつのからだではあるが、皆が同じ賜物を持ち、同じ働きをするのではないとの根本原則を放棄することはしない。」[14] パウロは生涯この姿勢を貫きました。それは、パウロが常に語っているように、イエス・キリストに捕らえられているからです。

各自に与えられる啓示を尊重したあとで、16節でパウロは独特な表現を用いて必要不可欠なことがらに目を向けさせます。「この節の終わりの部分は一番難しい箇所であり、その困難さのためにギリシア語本文にも多くの違った写本が見られる。」[15] 各自が到達したところに従って、同じように思慮深く、同じ基準の隊列を組んで到達しましょうと勧めています。これは多様性の中の一致とも言えるでしょう。違いを理由として、論争してはいけないのです。「ピリピ教会にはだれよりも優れた霊的到達を主張して、ほかの信仰者を軽蔑する人々がいたに違いない。」[16] その反対に、教会とは他でもない、多様性の中の一致でありハーモニーなのです。各自の啓示は違っても、また各自の到達段階は違って、殉教者でも迫害を恐れる弱い信者でも、それは問題ではなく、神の栄冠を得るために助け合いながら、同じ方向に整然と前進する地上の教会の姿が描かれています。すべてのものがイエス・キリストに愛され、イエス・キリストに促されているからです。ですから、救済論は故人の悟りや英雄的信仰のなかにではなく、神に召された弱き民で構成される教会論の中に見出されるべきものだとわかります。

[1] 白井きく、「ピリピ人への手紙を読む」、白順社、1991年、152頁

[2]  クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、日本基督教団出版局、1988年、111頁

[3]  ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、261頁

[4]  シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、44頁

[5]  インタープリターズバイブル、「第11巻」、アビンドン社、1978年、87頁

[6] 前掲、シュラッター、「新約聖書講解10」、46頁

[7] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、262頁

[8]  ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、155頁

[9]  前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、263頁

[10] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、155頁

[11] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、225頁

[12] 前掲、シュラッター、「新約聖書講解10」、46頁

[13]  前掲、インタープリターズバイブル、「第11巻」、92頁

[14] 前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、114頁

[15] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、157頁

[16]  マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、160頁

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