映画「普通の人々」は俳優のロバート・レッドフォードが監督し、アカデミー賞をとった作品です。映画のレヴューを見てみると、これを評価しない人もたくさんいます。わたしも若いころに見た時には、あまり感動もなく「普通」の映画の記憶しかありませんでした。しかし、改めて見てみると、内容の濃さに驚きました。そして、主人公の青年は、愛する兄を海難事故で助けることが出来なかった自責の念から、自傷行為の闇におちこみます。映画のストーリーの進行と共に、彼がカウンセラーの助や、父親や友人の支えによって、ゆっくりとトラウマから抜け出していきます。最後の場面では、助けられているだけの人物だった彼が、人を助けることができる人間へと成長している姿が感じられました。この映画のレヴューは数多くありますが、すべて読んでみると優秀な映画ファンがいることに驚かされます。概論にすぎませんが、深い悲しみを持った経験のある人のレヴューには「いいね」がたくさんついています。レヴューのなかには、このように心を打つものがたくさんあります。ただ、残念ながら、カウンセリングの視点をもったものがほとんどありませんでした。わたし自身は、アメリカで神学と同時にカウンセリングの学びも行い、大病院でチャプレンの働きもした経験があるので、この映画の底流である「人間はいかにして苦しみを越えることができるか」という点に着目しました。カウンセラーはトラウマに苦しむ青年に、アドバイスをしたことは一度もありません。「誰でも悲しみはあるよ」などという月並みな慰めを与えた事もありません。彼のカウンセリングの方法は、傾聴を強調したロジャース式ではなく、どちらかというとフレデリック・パールズのゲシュタルト療法を彷彿させるものでした。悩める人の存在そのものを追求したのです。難しい技法のことは抜きにして、どんな療法にしても、カウンセリングの原点は、自分自身の存在を率直に認めることだと思います。誰でもが、生きていくために、あるいは自己防衛のために、仮面をつけているのですが、敢えてそれを捨てて、自分を見つめることです。特に、悲しみ、弱さ、怒り、切なさ、そうしたネガティヴな感情の根底に何があるかを発見することです。存在の原点です。
興味深いことに、これが聖書神学と共通点があるのです。例えば、旧約聖書の「出エジプト記」で、モーセが神の名前を聞いた時に、神は答えて、「わたしは、有って有る者」(口語訳聖書、出エジプト記3章14節)といいました。これは極めて大切な部分なのに、新共同訳聖書では、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(新共同訳聖書、出エジプト記3章14節)という陳腐な翻訳になっています。もしわたしが、聖書翻訳委員の一人でしたら、こうした訳は決して認めることが出来なかったでしょう。残念ながら、それを許してしまった日本の聖書学のレベルの低さに辟易とします(ゴメン!)。なぜなら、素人のわたしでも、ヘブライ語の原典を読んでみれば、口語訳の方が正確に訳されていることに気が付くからです。理解を深めるために、同箇所の英語聖書(RSV)を見てみましょう。そこには、I AM WHO I AM.と書いてあるではありませんか。これはヘブライ語の語順と同じです。ヘブライ語の言語構造が英語に似ているせいもありますが、これを新共同訳のように、関係代名詞を抜いて訳してしまっては、同じ言葉の間抜けな繰り返しのようにしか響かないのです。もし、わたしが口語訳聖書にさらに改良を加えるとしたら、「わたしは、有って有る者」ではなく、「わたしは、在って在る者」にしたいと思います。何故なら、神は、有無という条件の中の有ではなく、存在の根源であり、そこには選択の余地がないからです。こんな簡単な哲学的視点を、なんで現代の聖書学者が持ちえないのだろうと疑問に思います。さらに、原典のヘブライ語では、在る(AM=BE)という言葉には、神と同等の表現である(A)HYH(発音を禁じられた言葉)のスペルが用いられているのです。新約聖書では、神の属性は、愛、命、光となっていますが、旧約聖書ではそれらを包括する「存在」(BE)そのものになっているということは、底知れぬ興味を抱かせるものです。
わたしが、何故ここまで脱線したのかを想像できる人もいるかもしれません。その理由は、宗教とは、個人が何かを強烈に信じるというカルトや新興宗教とは違うということを知ってほしいからです。それらは迷信と同レベルです。もし、人間がトラウマから脱出するとしたら、それは痛々しい現実に仮面をかぶせて見ないようにするのではなく、存在そのものを、極めて厳粛な存在、変えることのできない実体として見ることです。映画「普通の人々」の中のカウンセラーは、物語では脇役に過ぎませんが、人間がトラウマを乗り越えて、自分自身の傷ついた実体を受容していくという、自己復帰のストーリー(再生と復活)では主役だと思いました。主人公の青年が抱えていた様な自責の念を、震災から10年経た現在でも、いまだに多くの人々がかかえていることでしょう。大川小学校で犠牲者となった子供の親が、テレビのインタヴューに答えている姿が映像にでていましたが、それを見てもあの青年の苦しむ姿と重なってしまいました。「我が子が死んだときに、自分は仕事で遠くにいて、そこにいなかった。やっと学校に行ったら、泥だらけになって置かれていた子供の姿をみた。」、などの言葉がそれです。親なら、子供の最後をみとってあげたかった、せめて遺体は綺麗に着飾ってあげたかった。そう思うでしょう。けれども、できなかった。それが痛みなのです。また、悲しすぎてそのように表現することはできないのです。また、東日本大震災で愛する者を失った人だけではなく、コロナ禍とか、事故とかで、心に取り返しのつかない喪失の苦しみを持った人は、ぜひ、カウンセリングの視点で、映画「普通の人々」を見て欲しいと思います。小さな癒しがあるかも知れないことを、期待したいと思います。なぜなら、嬉しい事も悲しい事も、その存在の底辺は神の世界だからです。人は決して孤独ではなく、神共に在る(いまします)世界に在る存在です。興味のある方は、讃美歌405番の「かみともにいまして」の歌詞を御覧ください。わたしの心の支えになっている曲の一つです。英語の題は、GOD BE WITH YOU TILL WE MEET AGAIN です。