キリストの十字架に敵対した生活をしてはいけないと諭すパウロ
フィリピの信徒への手紙3章17節 –21節 文責 中川俊介
17節で、パウロは再び兄弟たちよと優しく呼びかけます。どんな状況にあってもパウロの心を支配するのは、規則や道徳ではなくキリストの愛なのです。わたしたちもその姿に是非ならいたいものです。そこで、パウロはフィリピ教会の信徒たちに、「わたしに倣う者となりなさい」(新共同訳)と言います。「自分の不完全性を認める者が、どのようにして自分を模範として推奨できるのだろうか。」[1] ただ、ここで注意しなければならないのは、ここで用いられているギリシア語のスムミメーテスには模倣という意味はもちろんあるのですが、もともとは「同じ模範に共にならう者」という意味です。ですから、パウロは自分を模範にせよ、といっているのではなく、自分もイエス・キリストを模範として従っているのだから、兄弟であるあなた方も同じようにしてほしいと望んでいるのです。ここは誤解を生みやすい部分だと思います。それにしても模範は外面的、具体的なものであり、パウロが内省的な思考を過度に重視することを避けたことがわかります。
ですから、続く部分で、パウロは自分を模範とするだけではなく、そのように歩んでいる人々にも目をとめなさいと言います。再びパウロが用いる用語の微妙なニュアンスに触れますが、ここで「目を向ける」(新共同訳)と訳されている言葉は、3章14節にある「目標」と同義語です。それは偶然ではないでしょう。であるとすると、兄弟たちに対するパウロの願いは、パウロのみならず、キリストを模範として従っているすべての者を目標として目指し、日々をおくりなさいと勧めているわけです。非常に具体的です。書物や思想では把握できないことも、外面的に神が与えた人物を通して学びなさいということです。
18節に、パウロがどうしても兄弟たちに勧めをしたいと思ったかの、背景が述べられています。「接続詞の『なぜならば』で始まる新しい部分で説明が行われている。」[2] 誇張ではなく、パウロは今まで何度も言ってきたが、今は涙ながらに言うと語りかけます。その理由は、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いからだとします。「そのような人間が、フィリピ教会のキリスト教徒を惹きつけるのに成功しており、使徒パウロは、彼らと教会の間に手紙によってしか自ら割ってはいることができずに、自らの言葉に涙を流す。」[3] この涙もパウロの愛のしるしだと思います。しかし、これはどういう事でしょうか。前節では人々の具体例をとおしてキリストを模範として歩むことが述べられているので、きっとそれとは反対の人々がいたのでしょう。それにしても、キリストを模範としていないならわかりやすいのですが、キリストの十字架に敵対するとは何でしょうか。「人間は、十字架を負われたキリストに反抗して、この十字架を、人間が忘れなくてはならない不幸として退ける。」[4] この状況から推測するならば、十字架の贖罪と違った救済論を唱えていた人々がいたのではないでしょうか。「キリストを信じるといいながら、救いの保証を自分の能力やわざに見出し、キリストを不要とする人たちである。」[5] わたしたちの時代には、こうした贖罪論という教理は広く認められていますが、パウロの時代には、何が救いの根拠なのかはまだ定義されていなかったことがわかります。
そうした敵対の理由について19節でパウロが書いています。それにしても、冒頭に見られる表現は厳しいものです。また、滅びというのは単に破滅するというのではなく、最終的にはアバドン(底なきところの使者)に至ると述べています。つまり、救いから落ちてしまうということです。「敵は自分の欲のために、信仰の本質を変えてしまうのである。信仰のある人しか犯さない恐ろしい罪である。しかもその傾向を、すべての信者が持っている。」[6] これをわたしたち自身にひきあてて考える必要があるでしょう。しかし、パウロは何故そこまでハッキリと予告できたのでしょうか。その理由が、この節の後半に書かれています。第一に、そうした人々の神は彼らの腹だといいます。この腹という言葉は、内臓のすべてを示すだけでなく、人間の隠された奥深い場所や、人間の心を示す語です。つまり、彼らの救いの意識は外面的なキリストの十字架にあるのではなく、己の内面における理解や反省にあったのです。ですから、パウロは彼らの腹の底にあるものが神になっていると言いたいのでしょう。それを腹に譬えたのは、いかにもパウロらしい表現です(ローマ16:18参照)。「朝食抜きで始まる一日はなくても、祈りなしで始める一日が何としばしばあることであろうか。」[7] それだけではありません。第二に、彼らの栄光は、恥の中にあるというのです。どうして、このように相反する言葉を並べたのでしょうか。恥が栄光であるとは、常識的には考えられません。ここで恥とは、恥ずべき利得をむさぼること、あるいは割礼を意味します。そうであるならば、フィリピ教会の一部の者が、その立場を利用して、利得や立場の優先性を誇り、その財力等を自慢していたと解釈できます。であるとすると、前の部分は、そうした財力、権力、地位を誇る者たちが、豪華な宴会をして腹を満たしていたということへのパウロの皮肉としても理解できます。ですから、最後にパウロは、彼らは地上のこと抜け目ないと指摘します。この節は、理解するのが難しい部分ですか、要するにパウロの目に移ったのは、この世の事柄を第一にして、十字架という苦難を避け、悪賢くふるまい、神に敵対している人々がいるという事でしょう。困った問題です。神よりも自分の腹や自分の心を先行させるという人間性は二千年たった現代でも変わることはありません。
それに対するパウロの提案は何でしょうか。20節で、パウロは自分たちの国籍を天に持っていると述べます。「この箇所においてのみ、パウロはわれわれの本国は天にあると語る。」[8] これが先ほど書かれた地上との対比であるわけです。そして、国籍ですから、単に天にあるのではなく、そこにおける権利を有するという力強い宣言です。「天と地との間に容易に越えることのできない断絶が前提されている。」[9] そして、その天から救い主イエス・キリストが来られるのを熱心に待つのです。「敵意と疎外に満ちた世界から受ける迫害、試練から私たちを究極的に救うために、救い主は再び来られると約束しているのである。」[10] この世の支配者である死(罪)が滅び、命が支配するのです。「驚くことに、救い主と言う言葉は、パウロの手紙ではエフェソ5:23とここにしか用いられていない。」[11] ある学者は、こうして待つことは決して消極的な考えではなく、将来によって現在を規定する積極的な生き方であるとします。そしてこの積極性が、終末論の中心です。現世の利益を第一にする人々に、現生の思考で応答せず、すべての終わりに再臨があり、主イエス・キリストの到来によって現在の救いが確定するという主張です。「われわれはどこの市民になるのだろうか。われわれの故郷はどこなのか。それはこの地上、現在の目に見える世界であろうか。」[12] パウロが現世主義に対していたずらに反論しません。
21節で、パウロはキリストがわたしたちの卑しい体を変えて下さると言います。「イエスを、世界に真の秩序をもたらす方、真の新しい世界の時代を支配する方として、われわれクリスチャンは待ち望むのである。」[13] ここで、卑しいとは神の前の謙遜の意味です。これも地上の財力や権力を誇る者の対比としてあるわけです。そして、変えるのは自分ではなく、あくまで救い主イエス・キリストの働きなのです。万物を服従させる力によって、わたしたちの体を彼とまったく同じ栄光の体に変えて下さると述べます。「体の復活は単独の出来事として見られてはおらず、宇宙的な贖罪の最後の場面として見られている。」[14] 地上の複雑な問題に対してパウロ自身は答えを持っていません。問題すらも、神の御心と関係なくはないからです。パウロが最後に提示するのは、人知を超えた神の憐みによる大転換であり、救い主イエス・キリストにおける勝利なのです。「ところでこのように呼びかける際に、彼はこの短い文中で語りかける相手を二度も『愛する人たち』と呼んで、心のこもった温かい愛情を示し、更に個人的な再会に対する熱望を表明している。」[15] これは地上の問題に悩むわたしたちにも示されている究極のゴールだと言えるでしょう。前にも書かれていたように、パウロはこのゴールに向かって全力で走りぬき、わたしたちにもその素晴らしい目標をしめすのです。まさに、パウロこそ[炎のランナー]です。
[1] インタープリターズバイブル、「第11巻」、アビンドン社、1978年、93頁
[2] ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、162頁
[3] クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、日本基督教団出版局、1988年、116頁
[4] シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、48頁
[5] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、233頁
[6] 白井きく、「ピリピ人への手紙を読む」、白順社、1991年、162頁
[7] ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、289頁
[8] 前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、122頁
[9] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、242頁
[10] マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、165頁
[11] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、172頁
[12] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、292頁
[13] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、296頁
[14] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、173頁
[15] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、302頁