フィリピの信徒への手紙4章1節 –7節 文責 中川俊介
パウロは、厳しい滅びの勧告をしたあとで、1節では再び愛する兄弟たちよと呼びかけます。「われわれもパウロの姿に目を留めて、この時代の感情を尊重しない風潮に惑わされず、心のこもった温かい愛情を持たなければならない。」[1] パウロの本音は愛であって、冷酷な裁きではありません。それだけではありません。フィリピ教会の兄弟たちはパウロにとって、慕わしい喜びであり、パウロの栄冠なのです。「使徒であるパウロは、福音を宣べ伝えた相手が救われることによって自分も救われるとした。」[2] だから、パウロ自身のの冠なのです。また、この栄冠という言葉は民衆のために価値ある功績を成した者や運動競技で優勝した者に与えられる花葉冠であり、そのギリシア語はステパノです。偶然か故意なのかは判断できませんが、ステパノはまだ未信者だったパウロの目前で処刑された最初の殉教者の名前と同じです。パウロもそのことを忘れることはできなかったと思います。その言葉のあとで、愛する方々よ、主にあってしっかり立ちなさいと励まします。ここで、「立つという言葉によって、パウロはどんなに攻撃を受けても自分たちの持ち場を離れない戦士として彼らを描いている。」[3] こうして、パウロはどんなに問題があってもあくまで愛の立場を堅持することを推奨します。フィリピ教会の信徒たちが堅く立つべき戦いの前線の場は、まさに、パウロを通して示された主イエス・キリストの愛なのです。
2節には、ユウオデヤとかスントケという個人名がでています。「パウロは、ここで前に彼を悩ませた対立の問題にもう一度戻り、教会の指導者である二人の女性に対して、信徒たちに与えたと同じ忠告の言葉を用いて語りかける。」[4] つまり指導者も一般信徒もこの点においては違いはないのです。初代教会では、女性も指導者として活躍していました。「使徒言行録の叙述から明らかであるが、マケドニア教会の設立と運営においては女性が重要な役割を担っていた。」[5] そうした指導者に対して、パウロは一つの勧めをおこないます。「教会内の二人の女性に対する勧告が、この手紙の最後の牧会的助言の序をなしている。」[6] こうした助言がこのフィリピ信徒への手紙の中心点なのだと考えていいでしょう。そして、パウロの考えの中に男女の差別はなく、彼は常に尊敬をもって接していました。彼女たちに望むことは、主にあって一致することです。「彼らは教会の交わりの中で、仲違いをしていたのであろう。」[7] 教会では、意見の不一致から分裂が起こりやすいのですが、主にあって主と同じ考えを持って行動すればそのような過ちは起こりにくいでしょう。それには自分のためではなく、他者のために生きることです。それに手紙の朗読によって彼らの名前が公同の礼拝で述べられることは確実ですが、「それは信徒たちがこの傷を癒す働きを助けるように期待するからである。」[8] それが教会の土台を堅固なものにするということを、パウロはよく知っていたのです。
3節でパウロは繰り返して願います。「パウロは現実主義者だった。ユウオデヤとかスントケが自分たちで相互に和解することは難しいことを理解していた。そこで、第三者の助けを求めた。」[9] そして本物の同志よと呼びかけます。彼女たちを援助してくださいというのです。和解へのアピールです。その人たちとは、パウロと一緒に福音のために労苦した人たちです。その人たちは、命の書に名前が入っているパウロの他の同労者やクレメンスと一緒だというのです。「クリスチャンの奉仕は、この地上では目に留まらないものかもしれない。しかし、重要なことは神がそれを目に留め、最後に称賛するということである。」[10]
4節はこのフィリピ信徒への手紙のなかでもよく知られている部分ではないでしょうか。外国のクリスチャンソングにもこの句は登場します。主にあっていつも喜びなさい。「苦しみは同時に恵みであるという殉教者の立場から、今までパウロはたびたび喜びを語った。」[11] そして、再度言うが、喜びなないと命じ、くりかえして言うが喜びなさい、と命じます。「クリスチャンのすべての集会や神奉仕の上に、輝くような楽しさがあふれているだろうか。それによって教会は、あらゆる時代の喜びに飢えているひとびとを引きつけているだろうか。」[12] また、喜び自体は自発的なものですが、ここでパウロが相手に喜びを命令しているところがユニークです。人生のあらゆる出来事の裏に神の経綸を悟ることが喜びの原点であり、聖霊の働きによってパウロや弟子たちはそれを自覚していたのです。わたしたちがここに存在すること自体が、神の恵みなのです。「ギリシア語では、喜びなさい、とは喜ぶと同時に別れの挨拶の言葉でもある。パウロはこの二重の意味でこの言葉を用いているのであろう。」[13]
そして、5節で、あなたがたの寛容さがすべての人に知られるようにしなさいと言います。「なぜなら、ひとをゆるさず、他人に対して裁判官として振舞う人びとにとって、主は恐るべきお方だからである。」[14] この寛容と言う言葉は、優しさや忍耐、公正などを示す言葉です。そこでは持続的な憎しみが存在しません。喜んでいる者は憎しむことが不可能なのです。憎しむ者は深い悲しみを心の底にためた者だからです。ここでは、神の愛をパウロがこのように解釈して教えたと考えても良いでしょう。「神によりたのむことをしないで、他人に『求め』をつきつけ、権威の要求をする生き方がここで退けられる。」[15] ですから、性格的な温和さを聖書がもとめているのではなく、すべてのストレスの原因を対人的に考えるのをやめ、主に依り頼んで心安らかに生活するように教えられているのです。それは、イエス様の教えと同じです。そして最後に、主は近いのですと付け加えています。宇宙全体の変革が起こるようなときに、ささいなことにこだわってはいけないというのでしょう。ある学者は、聖霊の内在によってその近さはすでに現実化しているといいます。
しかし、たとえ再臨が近いとしても、6節でパウロは何も思い煩わないで、すべてにおいて神に感謝と共に祈りと祈願をもって、あなたがたの願いを神に知ってもらいなさいと命じています。「感謝のない者は祈ることができない。それは神の善き業に対する自覚がないからである。」[16] 自分中心に世界が回っているとの誤解から思い煩いが生じます。「彼は、何事も思いわずらわないという態度に、イエスがなさったと同じ根拠をすえた。」[17] 確かにイエス様は思いわずらわないようにと繰り返して教え、信仰者の自由を自覚させようとしていたのです。信仰者は自分に死んで、つまり自分の主権を捨てて、主イエス・キリストに生きるときにこのようになるのです。そして、今まで思い煩っていた者が、思い煩わなくなった時には、自分が主イエス・キリストに生かされていると知るのです。また、他の宗教の祈りは祈願が多いものですが、キリスト教では感謝と祈りは切り離せないものです。これは、困難に際してのパウロ自身の基本姿勢でもあったのでしょう。感謝によって、過去に与えられた神の恵みを常に思い起こすことができるのです。
7節で、そうすれば、あらゆる考えを超越する神の平安があなたがたの心とあなた方の思いをキリスト・イエスにあって守るでしょうと、パウロは励まします。「自分の救いを願った信者が、自分の救いを完全に神に委ねて、神のため、キリストのために生きる者となったのである。」[18] それは十字架によって完成された神の平和の事です。神の平和とは、十字架による神との和解と同じことだからです。「信仰によって神と和解させていただいた者の心にはキリストの平和が支配する。」[19](コロサイ3:15参照)また、ここでの「守る」という言葉は軍隊用語で、守備をかたくするために監視するという意味です。さまざまなサタンの攻撃を監視し、それから防御するのは、このキリスト・イエスの守りしかありません。それはキリスト・イエスが究極の救い主であることをあらわしています。
[1] ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、302頁
[2] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、249頁
[3] ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、178頁
[4] クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、日本基督教団出版局、1988年、123頁
[5] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、179頁
[6] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、310頁
[7] マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、169頁
[8] 前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、124頁
[9] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、179頁
[10] 前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、171頁
[11] 白井きく、「ピリピ人への手紙を読む」、白順社、1991年、183頁
[12] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、314頁
[13] インタープリターズバイブル、「第11巻」、アビンドン社、1978年、109頁
[14] シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、52頁
[15] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、258頁
[16] 前掲、インタープリターズバイブル、「第11巻」、113頁
[17] 前掲、シュラッター、「新約聖書講解10」、52頁
[18] 前掲、白井きく、「ピリピ人への手紙を読む」、189頁
[19] ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、クラーク社、1897年、135頁