「復活の朝」 ヨハネ20:1-18
イースターおめでとうございます。きょうは、キリスト教にとって最も大切な日である、復活祭の日です。この復活祭は、それまでの歴史になかった新しい出来事だったと言えるでしょう。新しいといえば、朝というものは毎日あるわけですが、特別の場所、特別の機会をとらえると、それが忘れられない新しい記憶となります。元旦の朝もその一例です。復活祭、あるいはイースターの朝は、弟子たちにとって忘れられない新しい朝となりました。わたしたちにとってイースターの朝は、どんな朝なのでしょうか。
イエス様は十字架上で悲惨な最期を遂げました。それは、光のない、闇の世界だったといえます。実は、イエス様は、わたしたちすべてが必ず直面しなければならない死の現実、神さまから切り離された状況に立たれたわけです。聖書では、アダムの罪によって死が全ての人に及んだ(ローマ5:12)に書いてあります。死ぬ原因の根本は病気や事故ではありません。聖書によれば、死の原因は、罪にありそれは神からの離反、分離という意味です。神の属性は、命なのですから、神からの隔離が死であるのは当然だといえるでしょう。しかし、それを知らない人は多いと思います。イギリスの精神分析医である、ジョン・ボルビーは親子の絆を研究しました。そして、彼は、人間の現在の在り方に幼少期の親子の絆が大きく影響していることを発見したのです。親子の絆が、戦争、事故や災害で切れてしまい、幼い子が孤立すると、免疫力まで下がってしまうそうです。そう考えると、わたしたちの、命の与え主であり、親である創造主から、罪によって隔離されてしまうことは人類に大きな疎外感を与えたと言っても良いでしょう。ですから、その損失を補おうとして、人間は神以外のものを神として崇め、心の支えや慰めとしてきたのです。この偶像神のことを英語ではアイドルといいます。しかし、どんなにアイドルが多くても、真の神との隔離である罪の結果は死でした。イエス様が復活されたのは、イエス様には罪がなかったからです。罪がないとは、しっぱいがないこととは違います。超人でもありません。罪がないとは、その人が真実の愛と、命と光の中を歩んだという事です。ですから、イエス様がわたしたちと違うのは、イエス様がその生涯において、神を愛し神と共に歩まれたことです。自分の意志ではなく、神の意志を第一にされたことです。これは、普通の人には出来ないことです。
そのイエス様が十字架で死なれたのは、贖罪のためでした。ここで贖罪(しょくざい)のことをお話ししましょう。でも、食材ではないですよ(笑)。今日の日課の少し前の、ヨハネ19:30にあるイエス様最後の言葉をみましょう。聖書のある方は、そこを見てください。ここに書いてある「成し遂げられた」は、原語のギリシア語では「テテレスタイ」であり、それは商業用語であって「支払うべき価を支払った、負債を払った」という意味です。これが贖罪です。つまり私たちが支払うべき罪の価である死を、イエス様はわたしたちの身代わりとなって支払ってくださったということのです。それが詩編85:11にある「正義と平和が口づけした」であり、古い翻訳では「義と愛の接吻」です。これは、絶対愛のゆえに、どんなに犠牲を払っても助けたいという思いで、他者の負債を命を以て支払い、愛によって義を立てたということです。身近な例でかんがえれば、親が愛する子供の手術のために臓器提供するのも一つの命のあがないでしょう。犠牲なしには救いはありません。それが義です。
義とか、義理をたてるというのは分かりにくいものです。でも義に関する実話があります。ある牧師の回想録に書いてあるのです。若いころその人はやくざの団体に入っていいました。その世界は厳しいものでした。しかし、自分の事を実の弟のように可愛がってくれた兄貴分がいました。彼もその人を尊敬していた。金の使い方もきれいでした。ところが彼は色々な失敗をして、やくざを辞めたいと思うようになったわけです。でもやくざの世界では、責任をとらなくてはやめられません。辞めたいからといっても辞表を出せばやめられるというものではありません。彼は悩んで、その兄貴分に相談したら、心配しないでいい、お前は堅気になれ、と優しく言ってくれたのです。彼はそれが信じられなかったでしょう。しかし、その兄貴分は、なんと自分の指を切り落として、組に対して彼のために義理を立ててくれたのです。彼を肉親のように愛するがゆえに彼のために自分の命を削ってくれたのです。指を落とすのも大変でしょう。しかし、復活祭では、イエス・キリストという絶対愛の方が、その体と命のすべてを犠牲とされて、わたしたちを助け、罪の世界から脱却できるように計らってくださったのです。讃美歌に、「慈しみ深き友なるイエス」という句がありますが、日本風に言えば「律儀な兄貴分イエス」ということになるでしょう。この兄貴こそ、救い主です。彼を信じる者は、闇と死の世界から、キッパリ足を洗うことができるのです。信じない者は、闇にとどまります。
さて、弟子たちが迎えた朝は、日本で言えば元日です。ユダヤの暦では、過越祭が終わったあたらしい出発の朝でした。ちなみに、過ぎ越しとは復活の予兆であり、コロナ禍のような苦しみが過ぎ去った故事に由来します。それにしても、イエス様の墓に来たマグダラのマリヤの心の中では、まだ何も「成し遂げられた」とは言えない状態でした。墓に行った他の弟子たちも、まだ「成し遂げられた」ということの意味が理解できませんでした。まだ、負債が残っているかんじでした。イエス様の墓の周辺では、遺体が見つからないことで大騒ぎでした。マリアは悲しくて悲しくて泣いていました。大きな喪失感がありました。イエス様が十字架にかけられて死んだだけでも悲しいのに、その遺体すら取り去られてしまったのです。闇が重苦しくのしかかったのです。でも、悲しみの時に神さまはわたしたちを決して放置しません。出エジプトの出来事の際にも、「見よ、イスラエルの人々の叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(出エジプト3:7)という神の言葉が書かれています。神は、マリアの悲しみと痛みを知っていました。わたしたちの悲しみも知っています。自然災害や事故やコロナ禍の苦しみも無視されません。だから、マリアには最初に天使が送られました。その後には、復活されたイエス様に再会することができました。それでもマリアは、最初には、イエス様であることがわからず、イエス様の遺体がどこにあるか、尋ねたのです。イエス様が、わたしだよ、覚えていないのかと言っても良かったでしょう。ただ、実際は、愛をこめて「マリア」とだけ呼びかけたのです。
マリアは生前のイエス様に7つの悪霊を追い出していただいた女でした。彼女が悪霊に支配されていたときには神の恵みを理解できませんでした。その時なら、復活もわからなかったでしょう。人間的な思いしかない人は、近くのものしか見えず、罪が清められたこと、キリストの代価によって負債が帳消しになったことを理解できないと(第二ペトロ1:9)に書かれているとおりです。わたしたちの社会の多くの人が、悲しみしか見ないのもそのためです。
しかし、まだ暗いうちに出かけて行き悲しみのどん底にあったマリヤは、自分で何かを発見したのではなく、向こうから歩み寄って下さった復活のイエス・キリストに出会ったのです。ここで、「向こうから歩み寄って下さった」という言葉がキーワードです。わたし自身も、学生のころに悲しみに包まれた毎日を送っていましたが、「向こうから歩み寄って下さった」神の使いの天使によって、神の恵みが理解できるようになり、英語の讃美歌にある「Isaw the light」を経験したのです。それは、神がわたしたち一人一人を愛しておられるからです。同じように、マリヤは、過去のキリストの面影ではなく、探していた本当の命に出会うことができました。命の方が出会ってくれたのです。そして愛をこめて「マリア」と呼びかけてくださったのです。この神の絶対愛を知るときに、復活の新しい命は顕示されます。67歳で亡くなられた八王子教会二代目牧師、三浦謙先生は次のように説教しました「たとえわたしのこの肉の体が滅んでも、私は愛において生き、真実において人の中に生き、社会の中に生き、何よりも神のもとに生きるのです。」わたしたちは愛において生かされるのです。これは真実です。どんなに財産があっても、愛のない人生は空虚です。どんなに楽しい娯楽を繰り返しても、愛のない人生は淋しいものです。愛があるときにその人は忘れられません。彼らは死んでいないのです。愛によって覚えられているのです。現に、二千年前のナザレの伝道者イエス・キリストの名は忘れられていません。今でも、多くの人を死に渕から救い出しています。それは神に生かされるということです。罪のないイエス様が、この世では殺害されても、神に生かされたように、わたしたちも罪を贖われ、イエス様と同じように神に行かされるのです。神は愛だからです。この愛に触れ、新しい命に触れ、マリアの人生にも光が生まれました。悲しみの人生から、本当に喜びの人生の大転換が起こりました。それが復活祭の朝です。それが、二千年たった今日の朝なのです。ですから、復活の朝は、他の朝とは違います。よく見てみましょう、喜びの光溢れる朝、神の愛を知る朝ではないでしょうか。そう信じる事が出来たら、既にあなたは、復活の命の光に包まれているのです。いつもと変わらない朝が、マリヤの見た朝のようになり、特別な朝となったからです。
人生には、これからも、まだ多くの災害と病と、悲惨があるでしょう。しかし、すでに夜明けは来ているのです。この世は過ぎ去ります。コロナの事も、追憶に過ぎなくなる日が必ず来ます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)とイエス様は告げました。愛を信じ信仰を捨てないことが大切です。主の業に励むこと、それはイエス様の愛の働きを受け継ぐという意味です。だいそれた行動は必要ありません。身近なものを愛して行きましょう。それが教会の使命でもあります。自分を愛すること。神を愛すること。それがなかなかできないわたしたちに、今朝もイエス様はわたしはここにいる、生きている、あなたを愛していると語りかけてくださいます。イースターおめでとう。