「愛の失格者」 ヨハネ21:15-19
教会の暦では、イースターから40日後の昇天日まで復活のお祝いが続きます。今年の昇天日は5月16日です。ルーテル教会が国教会だったフィンランドの歌で「毎日クリスマス」という歌があるそうですが、この40日間は「毎日イースター」の時です。古い教会の暦では、この時期の礼拝の主題が喜び、次は賛美、次が祈りと決まっていました。この喜びについて、ルターは述べています。「私たちは自分では罪とか、死とか、一切の否定的な感覚をもつことがあるけれども、神の憐れみの子として、信じなければいけないことがある。それは私たちが全く罪のないものとされたことである。」それが、キリスト教が伝えようとしている喜びの原点です。
ただ、誰もが罪の赦し、罪のないものとされたことをすぐに信じたり、体験できたわけではありません。イエス様の一番弟子のペトロだってすぐに信じることができたのではありません。
では、日課を見てみましょう。ペトロはイエス様が十字架につけられる前に、三回、「あなたも弟子でしょう」と尋ねられて、三回ともイエス様を知らないと否定しています。今回の箇所では復活されたイエス様から、同じように三回、私を愛しているかと尋ねられます。この中でイエス様は最初の二回はアガペーという言葉、「あなたは私を無条件の神の愛で愛するか」という動詞を用いて尋ねています。それに答えるペトロはフィリオスという「親や兄弟のように慕っています」という動詞で答えています。でも、三回目にイエス様がペトロの用いた言葉を用います。つまり、彼の立場に降りてきてくださったわけです。そして前にペトロが答えたのと同じ動詞で「あなたは私を親や兄弟のように慕っているかい」と尋ねました。すると彼は自分が三回もイエス様を知らないと否定した自分の罪のことを、痛みと悲しみの中で思い出したのです。わたしたちの場合はどうでしょうか。
ある家族でこんなことがあったそうです。父親が早くなくなり、母親が苦労して二人の息子を育てました。ところが子供たちが成人し、結婚して家庭を持つと、母親に言ったそうです。「お金はあげるけど会いには来てくれるな。」なんと冷たい言葉でしょうか。ただ、冷静に見ますと、人間関係は相互的なものです。母親の方も、忙しさのあまり息子たちが小さい時に、十分に愛を注がなかったかもしれません。あるいは生活の苦しさとストレスを子供たちに当てつけて厳しすぎたのかもしれません。相手を非難しているときは悲しくはないのですが、「お金はあげるけど会いには来てくれるな。」などと平気で言える子供を育ててしまった自分の失敗を思うと悲しくもなるでしょう。わたしたちにもペトロの悲しみはわからなくもないといえるでしょう。
それにもかかわらず、イエス様は裏切り者であったペトロを信頼することをやめません。そして彼の目線におりてきて「あなたは私を無条件の神の愛で愛するか」という高度な質問ではなく、「あなたは私を親や兄弟のように慕っているかい」とわかりやすく慰めてくださったのです。これこそ罪ある者を受け止める愛だ、とわたしは思います。「わたしは不従順で反抗する民に、一日中手をさしのべた」(ローマ10:21)と書いてあるとおりです。それでなければ、神の真実の愛は実証されないでしょう。人間の弱さ、卑怯さという泥沼の中にしか、真実の愛の花は咲かないのです。
真実の愛といえば、昔、ある若い牧師が伝道の意欲に燃えて地方の教会に赴任したそうです。若いころのペトロのようだったのしょう。自分が神の愛の伝道者だと疑うことは決してなかった。ところがその地で伝道は苦しかった。赤ちゃんも生まれたが、奥さんはあまりの生活の苦しさに病気になってしまったわけです。でも、病院で治療を受ける金もない。祈る力もなくなった。教会の仕事もできない。そんな状況が長く続いた。自分はもう力がない、試練を越えられない、駄目だと思った。しかし、あるとき祈れないで泣いていると、思いもかけない言葉が出てきのです。「罪深い私を憐れんでください」それまで彼は、若き日のペトロのように自信に満ちていました。自分が罪深い存在などとはs、微塵も思っていなかった。しかし、自分は愛の失格者だとわかったのです。すると、今まで考えてもみなかった「罪深い私を憐れんでください」という言葉を、本心で言えるようになった。そしたら、あれほど重かった気持ちが慰められ、軽くなったのです。悲しみのかわりに喜びがでてきた。まさに罪と死の力から解放されたのです。
ペトロも同じだったでしょう。自分が他の誰よりも主を愛している、自分が一番仕えている、そう思い、他の人々を見下していた、それらのことがまさに罪だったとわかったのです。私たちの思い上がりが砕かれるとき失格者となり、「憐れんでください」としか言えません。それが生まれ変わりの時です。失格者こそ、神の国の合格者です。復活です。イエス様の復活の体験は、古い自分が愛の失格者だと知ることです。そしてこの失格者をイエス様は信じてくれて、十字架の犠牲、「無条件の神の愛」で贖ってくださったと知ることです。それをペトロは知りました。17節には、知るという言葉が2度でています。イエス様が「ご存じ」であること。ペトロの愛を知っていること。言葉の意味は幾分違います。「ご存じ」というのは直感的に知ること、後の「知っている」はギリシア語のギノースコーであって、段階的・経験的に知ることです。ですから、イエス様はすべての成り行きを以前から既に知っておられ、ペトロが自分の失敗を通して愛を徐々に知っていったことを知られたというのです。イエス様の認識の先行性が語られています。これを、パウロはローマ書で、「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」(ローマ9:16)と述べています。神の恵みが先行するというのが聖書のメインテーマではないでしょうか。
さて、ペトロにイエス様は三度も私の羊を飼いなさいと命じています。実は羊飼いの仕事というのは、評判の良い仕事ではないのです。イエス様の時代に書かれたラビ文学というのがあります。その当時のラビというのは現代の牧師のような仕事です。ラビは羊飼いを、盗人、詐欺師と同じに見ていました。そして書いています。「この世で、羊飼いの仕事ほど、いやしめられているものはない。」社会的に最低の身分だったのです。ですから、イエス様は最低の仕事につきなさい。他者から侮蔑される仕事でも、それでも神の愛を最後まで逃げないで貫きなさいと命じたのです。
以前、イエス様が、ヨハネ10:11で「私は良い羊飼いである」といったことは、最低の仕事にわたしは喜んで立つよ、という意味をもっています。わたしがそうなのだからあなたも喜んで、一番低い姿をとる羊飼いになりなさい。ペトロに言われた言葉は、ある面で、わたしたち自身もそう言われているのです。
ロシアのドストエフスキーという作家は政治犯としてシベリアに送られて、苦しみの中で新約聖書を読み、ある日の日記にこう書いています。「たとえ、これが嘘であるにしても、自分はこの心を打つ真実なもの、これと一緒に立ったり、倒れたり、生きたり死んだりしたい。」わたしたちもこの羊飼いの羊飼いであるイエス様とともに、低い最低の姿で、一緒に立ったり、倒れたり、生きたり死んだりしたいものです。この方の愛の犠牲によって、愛の失格者である「私たちが全く罪のないものとされたこと」、を心から信じて。そして、愛の失格者に向けられた神の限りない愛は真実の信仰を生み出し、真実の信仰はあたたかい奉仕を生みだすのです。そして、毎週の日曜日が、復活の日となり、主に仕える喜びの日と変えられるでしょう。