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キリスト教の唯我独尊を捨て平和に生きることを勧めるパウロ

フィリピの信徒への手紙4章8節9節  文責 中川俊介

パウロはこの部分を「最後に」という言葉で始めます。「この部分はギリシア語の一つの文節で成り立っており、素晴らしいい修辞学的手法と気高い道徳的な規準に彩られている。」[1] つまり、手紙の最後を飾る部分になってきたわけです。わたしたちの手紙なら、追伸にあたる部分です。そこにはどんなことが書かれるでしょうか。本文とは少し違う内容でも、相手を気遣って、なにか一言を付け加えたいと思うはずです。では、フィリピ教会の信徒たちから遠く離れた場所で拘束されていたパウロは、何を告げたかったのでしょうか。そこで、パウロはここでも優しく「兄弟たちよ」と呼びかけ、彼らが今後心にとめるべき事柄を列挙します。

これらの項目の最初に来るのは、真実です。真実を心に留めなさいというのです。心に留めるとは、「考慮する、考える、推論するを意味する。」[2] つまり、この世の徳と福音が生み出す徳とは、類似点も相違点もあるので熟考が必要なのです。また、真実とはキリスト教にとって重要な言葉です。「真実とは神の本性であり、それは御子イエス・キリストの福音における良き業として顕現され、それゆえ主は、『わたしは真理である』(ヨハネ14:6)と語られたのである。」[3]

また、パウロが心配していたのは、フィリピ教会の信徒たちが人間の思索を主体とした誤った教えに騙されて、彼らがキリストの福音から離れてしまうことです。これはどの時代にでも起こりうることです。パウロが言う真実を心に留めるとは、たとえ善意からでたものであっても人間的なニセモノの教えや、形骸化した理論ではなく、現実に即した正真正銘の神の働きに注目することです。これは、絵画でもそうですが、神の創造した美しさと現実を見つめ、心にとめることによって芸術作品が生まれます。ですから、この世にある神が与えた真実なものを見つめて、それを心に留めることが大切なのだと思います。そしてそれは、理論ではなく、真実の愛の働きそのものであると言えるでしょう。パウロは、「何事においても」という説明を加えていますので、特にキリスト教内の事柄に限らず、文字通りに「何事においても」この真理に注目し、そこから学び、それに従って生きることを、パウロは最後のメッセージとしたのです。

次に来る言葉は何でしょうか。それは「気品あること」です。これは少し意外なことです。人間社会の外面的な虚飾を否定してきたパウロが、何故、この世の美徳でもある気品を心にとめなさいと言うのでしょうか。イエス様の教えの中では、幼子のように素朴であることは述べられていますが、気品に関することはあまり見られません。これはパウロ独自の考えでしょうか。しかし、この言葉の語源を調べてみると、それはギリシア語のセムノス(セボウマイ)であり、その意味は単なる外面的な気品ではありません。やはりパウロは外面的な礼儀を尊重していたのではなかったのです。この言葉の根本的な意味は、「生ける神を畏敬して生活している人」に目をとめなさいという事だったのです。これは、パウロの実践的な知恵であったと思います。手紙の最後に、どうしても伝えたかったのは、誠実な信仰者を見習いなさいというわかりやすい教えでした。これはわたしたちの時代でも、変わることのない真実です。

では、パウロの三番目の言葉は何でしょうか。これは、新共同訳聖書では「すべて正しいこと」と訳されていますが、この訳では誤解を生みやすいと思います。何故ならば、この世で「すべて正しいこと」とは人々が認めている、社会規範の事だからです。パウロが言いたいのは違います。もともと、ここでは「すべて義なること」と原語で書かれているのです。であるとするなら、これはキリスト教にとって重要な教理でもあります。義であることとは、神の御心に一致しているという意味です。時代が変わり、社会が変わっても、決して変わることのない神の愛との一致がここにあります。これが実現する時には、この世の差別は消え、戦争も消え、平和が訪れるでしょう。イエス・キリストの十字架は、神の義をわたしたちに与えるためでした。パウロはそれを痛感していました。

さらにパウロの追伸の言葉は続きます。四番目は純真な事です。これも誤解を受けやすい表現です。これはギリシア語のハギオス(聖なる)と同系列の語であり、これもまたキリスト教の教理に重要な語句です。それは基本的には、「神を礼拝するために穢れからきよめられて礼拝にふさわしいものとして準備される」という意味です。ですから、パウロは、イエス・キリストの贖罪から離れることなく、信仰者イコール礼拝者という重要な公式を伝えているのです。日本では、自分で聖書を読み、祈っていれば信仰者と錯覚する者もいますが、聖書の教えはそうではありません。信仰と礼拝とは切り離せないものです。ですから、パウロは、フィリピ教会の信徒たちが礼拝のために整えられることを切に望んだことがわかります。

五番目の言葉は、愛すべきことです。これは何でしょうか。原語のプロスフィロースは、プロス(ために)とフィロース(愛する)の合成語です。それは、「近くにいて常に交わりを持つ者の間に生じる親愛の情」をあらわします。パウロは、教会生活における愛を基本とした交わりを奨励しました。それは、気持ちだけの問題ではなく、困窮するもの、病に苦しむ者、迫害されている者を実質的に助けることを意味したのです。パウロがこれをどうしても伝えたかった気持ちが分かる気がします。

6番目は、評判の良い事です。これはパウロが伝道という事を考えたからでしょう。「他人を喜ばせ、評判が良いこと、これらはことごとくクリスチャン生活の本質の一部をなすものである。」[4] キリスト教会が自給自足的なのは悪くはないのですが、自分たちの共同体の存続に満足するだけでキリストの福音が伝えられないのは困ります。その伝道を考える時に、パウロが地域の人たちの評判を重視したことは興味深いことです。クリスチャンが周囲の人から尊敬をもって見られるときに、神の義が示されるのでしょう。逆に言えば、信仰者が神の御心である愛を離れて自分勝手に生きているならば、周囲の人や家族の者から良い評判を受けるはずはありません。ですから、ここでも、礼拝を媒介としてキリストの贖罪を受けていくことが大切だとわかります。

ここまでは、パウロは「何事も」こうしなさいという形を繰り返してきました。しかし、7番目の言葉には「何事も」ではなく、「何か」という表現に変えています。ですから、ここには選択の余地が残されています。ここでは、何か道徳的卓越をしまし称賛に値することがあったら、それも心に留めなさいと勧めました。これは、とくにキリスト教に限られたことではありません。「彼はローマ文化の前哨地に住むピリピの人々の市民としての良心に訴えている。」[5] 世俗の世界であっても、それが神の御心と無関係に営まれているわけではありません。「しばしばこの世に対抗して厳格な姿勢を示す教会は、より適切な神学を探求せざるを得なくなっている。」[6] パウロはキリスト教の枠組みを維持しつつ、しかしそれに固執せず、フィリピ教会の信徒たちが周辺の人々からも学ぶことを教えました。

この追伸の部分の全体構造を見てみると、その序列からも、パウロの意図していることが伝わってきます。それは、教会の土台を堅固にすることです。「それも、個人個人の人間的完成をではなく、愛の共同体の形成を目指す姿勢をとるこことなる。」[7] また、神学も含んではいますが、一般の信徒にもわかりやすく、実践的な勧めになっています。キリスト教が数世紀にわたる迫害を乗り越えることができたのは、このような教えがあったからでしょう。

9節からは少し語調が変わります。前節では、「心に留めなさい」ということが中心でした。「しかし、パウロが強調している論点は、考えるだけでは不十分だという事です。」[8] ここでは、実践が中心です。そして、その方法は、わたしから学んだこと(聞いて知ったこと)、受け入れたこと(受け継いだこと)、聞いたこと、見たこと、それらを実践しなさいという命令に従うことです。これはイエス様が、「わたしに従いなさい」と命じられたのと同じです。そしてそのことは、人間には不可能であっても神においては実現可能なのです。パウロが信じていたイエス・キリストの受肉の真理とは、パウロの生き方に現わされ、実体化されたものでした。パウロはそれを実感していたと思います。「しかもそれは思考上の一般的な関係ではなく、日常生活における全く具体的な関係に及ぶのである。」[9] また、そのように言えたこと自体が、パウロとフィリピ教会の信徒たちの関係が親密だったことを示しています。つまり、架空の事ではなく、パウロという、実在の信仰者をとおして復活のイエス・キリストから伝授されたものを、再び伝授していく使命が与えられているのです。使徒伝承ににた考え方です。「この言葉は、伝統を受け取り、他の者に継承していくことをあらわす専門用語である。」[10] まさに伝道です。ユダヤ人の思想において道とは、生き様そのものですから、わたしたちの信仰生活を伝えていくこと、それが伝道なのです。ここにこそ、信仰という内的なものが外在化し、現実化するという受肉の信仰の真理が示されていると思います。わたしたちは、信じて受け継ぐだけで良いのです。受肉させ伝承してくださるのは神です。

そして、そうするならば、平和の神があなたがたと共にいてくださるとパウロは励ましています。パウロは「平和の神」という表現をよく手紙の末尾に用いています(ローマ16:20.第二コリント13:11、第一テサロニケ5:23参照)。これは初代教会における祝福の言葉でもありました。「神は彼らの味方であり、彼らを平和のうちに守って下さるであろう。」[11] 平和の神と共に歩むことには、罪が贖われたことが背景としてあるので、何らのストレスもなく、悩みからも救われ、穏やかな感謝に満ちた生涯が約束されているのは当然です。しかし、それ以上に「それはむしろ、『救い』ないしは『あわれみ』と同義であって、いわば『さばき』に対立する概念である。」[12] 実に、パウロの試練に満ちた生涯も、平和の神と共に歩ませていただき、救いとあわれみを受け継いだ生涯でした。「クリスチャンの平和は、人と神との敵対関係が消えて、神の意思と人間の意思とが完全に一致し、神聖な愛と知恵の内に信仰が安らぐことを意味している。」[13] そこで、神こそが、人を聖化し、義とする平和の与え主なのです。わたしたちもフィリピ教会の信徒たちと同じように、その平和にあずからせていただきたいものです。

 

[1]  ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、185頁

[2]  クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、日本基督教団出版局、1988年、129頁

[3]  ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、クラーク社、1897年、138頁

[4] ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、320頁

[5]  マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、176頁

[6] 前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、129頁

[7] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、269頁

[8]  インタープリターズバイブル、「第11巻」、アビンドン社、1978年、118頁

[9] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、320頁

[10] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、189頁

[11]  シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、54頁

[12] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、272頁

[13]  前掲、ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、140頁

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