聖書研究

パウロが常に喜びに満たされていた理由

フィリピの信徒への手紙4章10節14節   文責 中川俊介

10節でパウロはフィリピの信徒への手紙の基調である喜びに戻ります。ここでも、「さて、主にあって」という言葉を忘れません。「この『さて』という接辞語はしばしば翻訳者によって見落とされたり省略されたりしているが、ここでは本当に重要な単語である。」[1] そこには、手紙の読者たちに対する深い配慮が隠されており、この部分を「されど」(永井訳)と翻訳した例もあり、これはそれまで述べられた事柄よりも、あなたがたのことが大切なのだという印象を相手に与えることができるものです。「ここでわれわれはもう一度、いかにパウロの手紙が生き生きと書かれているかを感じとることができる。」[2] そして、パウロは単に喜ぶのではありません。この大きな喜びの源泉は主イエス・キリストにあるのです。そしてパウロは、フィリピ信徒たちがパウロのために思いをよみがえらせてくれたから喜んだのです。また、ここで用いられているギリシア語のアネサレテ(よみがえる)、は新約聖書ではここでしか用いられていない珍しい語で、「それは、当時の園芸用語からの借用語で、植物や花がもう一度花を咲かせることを指している。」[3] これはパウロの伝道活動に対する彼らの財政援助についてのことですが、自然現象に触れていることから、それは被造物が受けている神からの加護を意味していると思われます。一旦は途絶えていたものが神によって復活したのです。「普通ならば、贈り物に対する感謝を述べるところであろう。」[4] しかし、パウロはお金より彼らの思いを大切にし、彼らに援助の考えはあってもそれを行う機会がなかったのだろうと言います。これはフィリピの信徒たちの立場を理解した親切な表現です。ですから、とくに彼らを責めることもありません。

11節で、パウロは自分の立場を説明します。そして、貧しいからこのように言うのではないと告げます。それは「贈り物をした人に注意したのである。彼は不足に悩んでいることを言わない。不足は喜びの原因になるからである。」[5] そしてパウロは、自分はどんな状況においても満足することを学んだと言います。「ここでは『わたしは学んだ』の『わたし』が強調されている。余人はいざ知らず、この自分はそれを学んだのだという意味合いがこめられていると見たい。」[6] ですから、主の恵みに集中することにおいて、パウロにはもはや自分が置かれている周囲の環境に左右されることはなくなったのです。「人生のどのような境遇の中にあっても、その状況における神のみこころを発見できるのである。それは、運命論でも、希望を捨てたり努力することをやめる怠惰でもない。」[7] 罪人を赦すキリストの愛こそが、パウロを常に満たしてくれる慰めと喜びの源泉だったのです。

12節では、パウロはさらに言葉を変えて説明します。ここでは同じような貧しさに関する用語を用いますが、その意味は経済的なものではなく、霊的にへりくだらされているということを知っているということです。「この詩形の部分全体では、貧しさと豊かさという両極端の事態が三回にわたり、言葉をかえて言及される。」[8] また、限度を超えて豊かであることも知っているといいます。「これは彼のクリスチャンになる前の生活を指しているかもしれない。」[9] 後半の部分は、新共同訳に欠けている語を補い「いかなる場合にも満ち足りて対処する秘訣を授かっています」、とした方が原典に忠実でしょう。そして、後半の満ち足りるとは、霊的に神の恵みを受けているということと理解できます。パウロがそれを平然と述べているのは、神にすべてを委ね、人生の浮き沈みも神の御心として受け止めているからでしょう。そして、11節の事を繰り返し、さらに深めています。そこから、満ち足りること、飢えること、豊かであること、窮乏することなど、すべてにおいて対処する秘訣を学んだというのです。ここで登場する秘訣という言葉は、もともとは神秘宗教などで奥義を手ほどきして秘伝を伝えるという不思議な表現です。新約聖書ではここでしか用いられていません。理路整然として端的に語るのを常としたパウロが、何故ここで秘儀について述べるのでしょうか。「再びパウロは、異教の環境の中で用いられている語彙を使用し、パウロが伝えたい正確な思想を、彼の読者が容易に理解できるようにとりはからっている。」[10] つまり、パウロは自分の立場を捨てて、読者の思考レベルに立っているのです。クリスチャンの姿勢はこうであるべきなのでしょう。相手の立場に立つのがイエス様の基本でもありました。それが愛という事ではないでしょうか。「愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」(第一コリント13:4以下参照)

13節でもパウロの主張は続きます。キリストによって強化されることによってパウロは、すべての事をできると言います。この『強化』という言葉も、神秘宗教の用語です。しかし、パウロにとっての力の根拠は神の救いの力です。そこに徹底して自己を神に委託した無力の姿の中に力があるのです。「それは申し分のない完全な自由である。しかしパウロもこれを学んだのであって、簡単に『できる』ようになったのではない。」[11] それにここでは、ギリシア語のイスクオーをいう言葉を用いていますが、これも特殊な言葉であり「どんな敵でも攻め落とすことのできない強い砦」という意味です。さすがにパウロの生涯の末期にあって、彼は自分の力に頼ることなく、自分の中に生きて働くキリストの霊につきうごかされ、すべてにおいて不可能なことはないと宣言します。なんと謙虚であり、同時に、なんと力強い宣言でしょうか。「この13節はかつてクロムウェルの生涯を救った。」[12] これを伝えられたフィリピ教会の信徒たちはおおいに励まされたことでしょう。弱いわたしたちも、自分の力で強くなるのではなく、パウロが経験したように神の愛によって、弱い時にも強いと言えるようになるのです。

14節では、話題を再びフィリピ教会の信徒たちの事に戻します。「ここでも感謝の言葉は直接には述べられない。また『贈り物』という表現も使われない。」[13] ここでパウロは独特な接続詞を用いて、これまで論じてきたことをまとめて必要不可欠なことに注目させます。つまり、これまでパウロがすべての状況に満たされてきたと言っているのは、まさにそのことをパウロがフィリピ教会の信徒たちに望んだからです。そして、彼らが苦難の中でも見事に立ち振る舞い、わたしの仲間になってくれたと告げます。それが援助の事を暗示しているのはあきらかです。ただここで注目すべきは、この「仲間」とう言葉です。これはスグコイノネオーという合成語であって、スグ(共に)コイノニア(同じ一つの生命に生かされ、同じ源に結ばれている)という事です。ですから、そのことをパウロは伝えたかったのだと思います。「一人びとりがイエス・キリストに結びつくことによって、うるわしい交わりが成り立つことを、パウロはピリピの信徒たちに教えようとしたのである。」[14] これをほかの箇所(第一コリント1:9)では、「主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた」と説明しています。あるいは、キリストの血と体にあずかることだとも言います。また、このフィリピの信徒への手紙2:1では同じ意味の事を「御霊の交わり」という形で表現しています。一言でいえば、キリストにあってへりくだった思いをもって一つになり、苦難を分かち合うのは当然だということです。「しかし、そのことで彼に対する教会の贈り物は、その価値を失うことはない。」[15] 残念なことに、新共同訳ではこのスグコイノネオーという重要語が訳出されておらす、感傷的で平板な「よくもわたしと苦しみを共にしてくれました」という感謝の思いとして理解されています。けれども、ここではパウロの他の手紙と同様に、共に主イエス・キリストの同じ一つの生命に生かされ、同じ源に結ばれているという素晴らしい事が語られているのです。

[1]  ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、196頁

[2] ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、328頁

[3] マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、178頁

[4] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、275頁

[5] 白井きく、「ピリピ人への手紙を読む」、白順社、1991年、200頁

[6] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、277頁

[7]  マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、178頁

[8] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、277頁

[9]  前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、179頁

[10] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、200頁

[11] ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、334頁

[12] 前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、180頁

[13] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、279頁

[14] 前掲、白井きく、「ピリピ人への手紙を読む」、202頁

[15] シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、56頁

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