「愛を手放すな」 ヨハネ15:1-10
今回のテーマは愛です。聖書全体のテーマも、愛だと言えます。聖書を学ぶことは愛を知ることだとも言えるでしょう。愛の賛歌とも呼ばれる第一コリント13章を見ると、「愛は情け深い、愛は忍耐強い、愛はすべてを赦し、すべてを望み、すべてを耐える。預言や異言は絶えるが、愛は決して絶えることがない。愛がなければすべては無に等しい。信仰、希望、愛の中で愛が最も偉大である」と書いてあります。パウロがそれを悟ったのは復活したイエス様に出会ったからです。
イエス様ご自身は、自然のたとえを用いて愛を教えました。イエス様は、愛こそが神の真髄であることを知っていたのです。当時の人々の多くは農業に従事していましたから、イエス様のたとえは理解しやすかったと思います。
イエス様は、神様はぶどう園を持つ農夫、そしてイエス様自身はぶどうの幹だとたとえました。農夫の仕事は、ぶどうの木を管理することです。春になるとたくさんの枝が付きますが、それを全部伸ばすとたくさん実りそうです。しかし、そうでもありません。八王子ルーテル教会の庭の薔薇も、毎年ペンテコステの日に薔薇の花びらを撒くのに用いていましたが、勢いの強い枝は伸びるだけで花を咲かせません。せっかく勢いよく伸びているのですが、剪定して取り除くしかありません。また、わたしが八王子ルーテル教会に赴任した年に、玄関前に植えてある山茶花が茶毒蛾の温床になっていてひどい状況でした。木の下に立っただけでかぶれました。役員会で、この木を切ってしまって、代わりにクリスマス用のモミの木を植える提案をしました。皆賛成しました。しかし、11月になると、きれいな山茶花を咲かせる木を見ると可哀そうに思い、切ろうとすることはできませんでした。どうしようかと悩んでいると、良い考えが浮かびました。茶毒蛾がつくのは、枝が密に茂りすぎていて、鳥が毛虫を食べていく隙間がないからです。人間も密になると、コロナ感染の危険がありますが、枝が密なのも、害虫や病気に弱くなります。そこでかなり剪定して、太い枝が見えるくらいにしました。それからは、一度も茶毒蛾は発生していません。剪定の大切さを実感しました。
イエス様の話も同じです。実を結ばないで、伸びるだけのものを放置すれば、悪くなってしまいます。良くするために取り除くのです。イエス様もそのことをよく知っていました。聖書の世界は消去法であり剪定法です。断捨離ともいえます。無駄なものを神様が切り取ってくださることによって愛の花を咲かせ、愛の実を結ばせてくださるのです。手入れをしなければ、愛の実は結びません。せっかく良い花を咲かせ、おいしい実を実らせる性質を受け継いで創造されながらも、新生していない人間は害虫に犯され、病気がつき、失望し、怒りサタンの病魔に侵されて、実を結びません。それは環境や性質が悪いのではありません。努力が足りないのでもありません。神の剪定を受けてないことが、問題なのです。
3節からイエス様は、ブドウの手入れではなく、弟子とイエス様との関係を述べます。わたしたちとイエス様の関係、礼拝や聖礼典との関係も同じです。つまり、説教を通して、イエス様の言葉を聞くことによって、愛の反対である、短気や、妬み、自己中心、いらだち、恨みなどの無駄な枝が除かれ、清められるのです。日の差し込まない闇に、光が入れば、自然に内部は浄化されるのです。新生して清められたことは、他人にはすぐにわかりませんが自分にはわかります。少なくともパウロにはわかりました。ルターにもわかりました。
ですから、ルターはこう言っています。「聖徒は内的には罪人です。外的には義人です。偽善者は内的には義人です、外的には罪人です。ここで内的とはわたしたち自身の評価においてであり、外的とは神の前で神の判定でという事です。」義人とは神に愛されている人の意味です。それは、状況が良くても悪くても、自分を愛することが出来ているというのがしるしです。
剪定とは、役に立たない人間、罪深い人間を切り捨てることではありません。むしろ逆です。罪深いことを自覚した枝だけが、イエス様に結び付いた枝なのです。自分を愛することが出来るのです。聖書を知れば知るほど、罪深くなっていく、つまり罪に自覚ができていく、神様の前で、義人とされていく、神の愛を実感していくのです。人間は愛を求めています。人間だけでなく犬でも愛なないと獰猛になってしまいます。以前のテレビ報道で、殺処分になっていた柴犬が優しくて賢い犬に変身して、なんと警察犬の資格試験まで受けた実例をみました。人も犬も愛されていることで愛することが出来るのです。自分を愛し、環境を愛し、周囲のものを愛することが出来るのです。
これはローマ書10章に詳しく書いてあります。罪深いわたしたちを、神が愛して下さっているというみ言葉は、わたしたちの近くにあるのだと教えられています。そして、述べ伝える者、説教者がいなくては信じることが出来ないとも書いてあります。ですから、印西インターネット教会もそのために活動しているのです。信仰は、神の愛の具現者であるイエス・キリストが罪人のために十字架にかかってくださったことを、聞くことによって始まると書いてあります。これは、人間の努力とか業績にはよりません。ある、心理学者が言っていますが、聞く前にすでに答えを持っていると、本当に聞くことができないそうです。答えを持たないで無心に神の愛を聞くのです。
たしかにそうです。キルケゴールは「どんなことがあっても批評家になってはいけない」と言いました。神が捨てなさい、と言われるものを人間の力では、なかなか捨てきれません。むしろ、神ご自身が愛の手入れをしてくださることを信じるのです。それは人生の試練とも感じられるかもしれない。試練を経て、実を結ぶとイエス様はそれを農夫の手入れで表現しました。これを聞いていたからこそ、その後の信者たちは数百年に及ぶ迫害と苦しみに耐えていくことが出来たのです。2017年にはルーテル教会とカトリック教会との合同礼拝が長崎の浦上教会で行われましたが、その浦上教会でも4番崩れと呼ばれる明治初期の迫害がありました。信徒の多くは流罪され、3千人のうち6百人が殺されました。その迫害は江戸時代よりひどく、水責め、氷責め、火責め、餓死拷問、箱責め、親の前で子供を拷問するなど熾烈を極めました。その後キリスト教が解禁になって、生き残った信徒は、この迫害の時を「旅」と呼んで信仰を強め、浦上教会を建てたそうです。それから80年、第二次世界大戦のときは、原爆が教会の真上に投下され、1万人の信徒のうち8千人近くが死亡しました。これを浦上5番崩れともいいます。教会堂も破壊されてしまった。しかし、彼らの愛の枝は枯れませんでした。被爆まで通して、愛の実を結んだのです。初代の信者たちが数百年に及ぶ迫害と苦しみに耐えていけたのも、浦上の信徒たちが5番崩れまで耐えられたのも、イエス様に愛され、イエス様に結ばれていると信じたからです。
イエス様につながっていない枝は、投げすてられて焼かれてしまうとあります。はたして神は、何を根拠にして、実を結んでいる枝か、実を結ばない枝かを判断するのでしょうか。ある面で、この部分は、役に立たない人は捨てられる運命にあるように聞こえます。ところが、ギリシア語では、「つながる」とは「キリストの中に宿る」ということです。ですから、神の言葉をよく聞き、聖礼典を受けるだけで十分です。わたしたちは神の愛を知って初めて自分を愛することが出来ます。その時に、殺処分になりそうだった柴犬愛ちゃんのように、新生することができます。神は愛だからです。
そして、イエス様は、わたしたちがイエス様の言葉を聞き、神の愛に結ばれるなら、なんでもかなえられると約束しておられます。なんと素晴らしい約束でしょうか。パウロが言ったように信仰、希望、愛という日々の生活の中の重要事項で、愛が最も偉大です。神はイエス様を通して今朝もわたしはあなたを愛している、わたしの目にあなたは尊いと語ってくださっています。それを語るのが教会の働きであり、それを聞いて信じ、日々の生活のなかで実践するのが信者の働きです。この愛があれば、不可能なことはありません。神は愛だからです。