今週の説教

孤独感に襲われたときに読む説教

「親子の絆」            ヨハネ15:1-10

今日の日課にイエス様がブドウの木であると書いてあります。イエス様は、葡萄の幹と枝との関係で、わたしたちが神様と関係を持っていなければ、死んでしまうことを教えました。それは、親と子の関係に似ています。幹が親で、そこから出た枝が子供です。そして、さらに考えると、イエス様は、この譬えを用いて、神様とわたしたちの関係が、子供を愛する親と、愛されている子供との関係にたとえられます。

親と子との関係は、聖書の世界だけでなく、どのような文化でも重要です。戦後に流行った曲で、「岸壁の母」という歌があります。二葉百合子という人が歌いました。その歌詞は藤田まさとという作詞家によるものです。彼は、「浪花節だよ人生は」、とか、「一本刀土俵入り」などの、人情を歌った曲を作詞しています。岸壁の母の歌詞は「母は来ました、今日も来た、この岸壁に今日も来た、届かぬ願いと知りながら、もしやもしやに、もしやもしやに、ひかされて。台詞;また引き上げ船が帰って来たのに、今度もあの子は帰ってこない、この岸壁で待っているわしの姿がみえんのか、港の名前は舞鶴なのに、何故とんできてはくれぬのじゃ。帰れないなら大きな声で、歌;よんでくださいおがみます。ああ、おっかさんよくきたと、海山千里というけれど、なんで遠かろ、なんで遠かろ、母と子に 台詞:あの子は今ごろどうしているでしょう。雪と風のシベリアはさむかろう、つらかっただろうと、命の限り抱きしめて、温めてやりたい、歌;悲願十年、この祈り、神様だけが知っている、流れる雲より風よりも、つらい定めの、つらい定めの、杖一つ」

子の帰りを待つ親の姿は、イエス様も教えました。放蕩息子の譬えです。親は息子の帰りを毎日待っていて、遠くにその姿が見えた時には、喜んで走り寄りました・

実は、岸壁の母や、放蕩息子の父親の姿が、本当の神の姿だとイエス様は教えたかったのです。わたしたちも神様のイメージを変えていただく要があります。これが信仰的にわかるなら、複雑な神学は必要ありません。神は愛であり、親なのです。わたし自身も、母子家庭で育ちましたから、父親という実感がなかったのです。ところが、学生の頃にクリスチャンになって、神様が父親だと知って嬉しかったです。

ただ、神様は、親であっても、子供を甘やかしません。農夫も木をあまやかしません。果樹ではないですが、教会の玄関のサザンカも、甘やかされていました。剪定されていないので枝は伸び放題でした。茶毒蛾の巣になっていました。下を通るだけでかぶれ、あまりひどいのでサザンカを切り倒して、代わりにモミの木を植えることを役員会に提案して承諾されていましたが、かわいそうなので、剪定してみたら、美しい花冬に咲かせたのです。枝をすくと鳥が虫を食べてくれるのです。ブドウの枝でも、実を結ばない枝は剪定されて取り除かれます。それは実を結ばせるためです。

さて、豊かに実を結ぶというのは、立派なクリスチャンとして生きることでしょうか。反対に、自分は実を結んでいないと思う人は、神の裁きと罰を受けて、苦しみながら死んでいく運命の人なのでしょうか。ある牧師はこのたとえについて、「私はもともとこのような言葉が好きではありませんでした」とまで言っています。確かにそうです。ある面で、この部分は、役に立たない人は捨てられる運命にあるように聞こえるからです。でも、実はそうではないのです。サザンカの例にもあるように、人間には罪がありますから、毒蛾だけではなく、死とか苦しみとかの枝がつきやすいのです。これを、親である神様は取り除いて下さるのです。でも一番厄介な枝は、人間的な枝です。

なぜなら、聖書では、人間的な技はゴミと同じでしかないのです。聖書には、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。」(ローマ8:33)と書いてある通りです。つまり、神が正しいと認めてくださる行いは、わたしたちが自分で考える善い行いとは違うのです。信仰から生まれたものだけが神の義の行いなのです。ほかのものは、この世でどんな地位があったとか、有名だったとか、それらは残らないで切り取られて焼かれてしまうこの世の人間的な枝なのです。

さて、実を結ぶこととは、「キリストを信じる信仰によって生まれかわり、律法を行うことができるようになること」だとルターは説いています。キリストに結びつくことで神に喜ばれる行いが生まれます。優れた農夫が、無駄な枝を排除して豊かな実りを木に与えるように、神さまご自身が、優れた農夫のように、あるいは愛情豊かな母親や父親のように、わたしたちの成長を待っていてくださり、わたしたちが神のもとに喜んで帰る事が出来るようにしてくださるのです。

イエス様は剪定によって、神様が人を生かしてくださることを教えています。コロナ禍でさえ、アメリカのマイクルソフト社のビル・ゲイツ社長は、こうした苦しみのもたらす利点についての論文を書いています。その一つに、コロナは、忘れていた家族の大切さを実感させてくれたとありました。これも、傲慢になって自分のことしか考えなくなった現代社会の剪定です。その他にもたくさんあるマイナス現象や、試練を通して、神様は愛する親として、普通の日常の感謝と喜びを教えてくれます。わたしも、おぼれそうになった時に、肺や気管支に水が肺ってひどい苦しみでした。しかし、おかげで普通に呼吸することができる喜びを改めて感じました。人間は何かを失った時に、その大切さを自覚します。それは、神の剪定だと考えてもいいでしょう。

人間も自分の力に頼っていると神の実をつけません。神の実とは、感謝であり喜びなのです。オリンピック選手の池江璃花子さんが、白血病の闘病を乗り越えて、久しぶりに競技に参加した時、泳げる嬉しさで涙を流していました。これも、一度は何かを失った者が体験する恵みの実なのでしょう。ただ、人間には、誰でも、聖書にあるように、「若いときは行きたいところへ行っていた」という傾向があるものなのです。好きなようにやっている時もあるのです。ところが、年取ってくると、自分の好まない所に連れていかれるのです。これは、まさに剪定です。その目的は、苦しみを与えることではありません。わたしたちが喜びと感謝の涙を流せるようになるためです。

それは、神に清められることです。ギリシア語の原語では、これにはカサイレオーという言葉が使われ、その意味は破壊するとか、引き倒すという意味です。ですから、清めとは、清純とか善良とかの意味ではなく、神様が人間の傲慢や不満をぶち壊し、感謝と喜びの涙が流せる人に変えて下さることなのです。

3節にも、イエス様の言葉によって、それを聞く者は既に清くなっていると宣言されています。これから、立派な行いをして、認められて、清いと認定されなさいという、命令ではなない。「あなたはすでに清いのだ」という宣言です。あなたは、十分に苦しみ、剪定に耐えた、だから「あなたは本当に清い」という福音です。誰でも、自分で自分を変えることはできません。しかし、神様の経綸によって、自分で捨てることはできなかった無駄なものを、神ご自身が排除して下さる。それは、当初は人生の試練とも、最大の苦痛とも感じられるかもしれない。しかし、「痛み経て、真珠となりし貝の春」。無駄な痛みはけっしてありません。信仰があれば、神の実りを結ぶでしょう。試練を経て、あなたはもっと生産的になれるはずです。あなたはもっと、奉仕を喜ぶことができる。あなたは、神のため他者のために、ささげることが苦にならなくなるはずです。イエス様が、「あなたは清い」といってくださるこの宣言を、アーメン(その通りです)と受け入れるのは、まさに信仰です。

実を結ぶためには、イエス様に、「つながっている」ということで十分です。日本語では絆です。ギリシア語原語では、「つながる」とは「わたしの中に宿る」キリストの中に生きるという意味です。「つながっている」ということは無力だからできるのです。弟子たちも裏切りと失敗で無力になりました。しかし、それは悪い事ではなかったのです。自分に力があればある程、ブドウの幹からは離れてしまうからです。逆に自分には自慢すべきものもないし、神のみ心にかなって生きている自信もない。自分は無力だ。罪ある者だ。こうした弱さの自覚が、良い実である信仰の絆をもたらすのです。

わたしたちは、時には、財産を使い果たして途方に暮れる放蕩息子や、あるいは、シベリアに捕虜で送られ、零下何十度もの寒さの中で、食べる物もなく強制労働させられて故郷に帰る日を待つ者のような喪失感と痛みを感じるでしょう。しかし、この弱さの中で、一日も休まず自分の帰りを待っていてくれる、親なる神様、ブドウの幹である神様の絆を自覚するのです。神が私を愛して気遣って、待っていてくださる実の親であることを知りさえすれば、どのような試練も乗り越えられます。神は愛だからです。愛はすべてに耐えるとパウロも語っているとおりです。

 

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