印西インターネット教会

人生の模範を探している時に読む説教

「キリストを模範とせよ」     ヨハネ15:11-17

スポーツでも芸術でも、何かを習うには模範が必要です。キリスト教の場合には、15世紀にトマス・アケンピスという人が書いた、「イミタチオ・クリスティ」(日本題:キリストに倣いて)という本が有名です。その中の項目に色々あります。「無益なおしゃべりを慎むこと」「あなたの好奇心を満足させるに過ぎないような読書をやめよ」たしかにイエス様は無駄話をしていたようではありません。耳が痛いことです。「災いの利益について」これは学ぶ価値があるでしょう。対人関係はどうでしょうか。「他人の欠点を耐え忍ぶこと」「誰でも内的生活を進め、霊的になりたいと思う者は、イエスと共に群集から離れねばならぬ」「自分を知る者は、自分の無価値をよくわきまえ、ひとの称賛を喜ばない」イエス様が時々一人で祈っておられたのはそのためもあるでしょう。「すべての人を満足させることは不可能である」「わが子よ、全心をささげて、しっかりと主により頼み、あなたの良心が自分の潔白と善良とを宣言するときには、人の批判を恐れるな」これらは行動の模範のように見えます。しかし、著者の意図はさらに深いものです。自分の行動ではなく、キリストへの集中です。罪とは自分のお臍をみつめていることだからです。ですから、「だから私たちはイエズス・キリストのご生涯を黙想することをもって、第一の務めとすべきである」と序文にあるのです。説教の時は、ある面では黙想しているわけです。ところが、人のことを考えていると黙想になりません。魂の霊的成長のためには「イエス様と共に群集から離れねばならない」のです。
さて、わたしたちは何をもって、人生の模範とするのでしょうか。パウロは「わたしがキリストに倣うものであるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(第一コリント11:1)と述べています。では、イエス様は何を模範としたのでしょうか。
ここで大切なのは、12節にある「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」、というイエス様の愛のご命令です。行動が先ではない。目に見えない愛が出発点です。愛によって行動が生まれるのです。ルターは、この愛と行動の問題を非常にわかりやすく説明しています。もしある人が、誰かが自分に愛と好意を寄せていると感じ、これを固く信じるならば、その人に対してどんな態度をとるべきか、その人に対して何をすべきか、その人に対して何を慎むべきか、その人に対して何を語るべきか、何を語ってはいけないか、それを誰かから教えてもらう必要はまったくない。自然に自分で判断できるというのです。確かにそうです。ルターは特に神に対してこの黙想を持ったのだと思います。ですから、イエス様はまず行動せよではなく、愛を第一の掟にしたのです。
周囲を見渡せば、自分も他人も愛のない状況が広がっていないでしょうか。愛していたらこんなことは怒らないと思えることが実に多い。それは、わたしたちが、いまだに愛されていることを知らず、そのために、わたしたちはどのように愛したらよいのか知らないことが理由です。人間は愛という蜃気楼を求める旅人になっている。
「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」、と言われた、イエス様はどうだったでしょうか。愛を知っていたのでしょうか。イエス様は洗礼を受けられた時、「あなたはわたしに愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)という神からの語りかけを聞いています。ヨハネ福音書にはイエス様が神の愛をどのように感じていたかがかなり詳しく書かれています。洗礼のヨハネも述べています。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」(ヨハネ3:35)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」(ヨハネ15:9)「神がわたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ17:23)
ですから、ルターが愛と行動について知っていたように、そのずっとまえから神の愛を実感していたイエス様は、何をすべきか、何を慎むべきか、何を語るべきか、それを誰かから教えてもらう必要はまったくなかったのです。道徳の教科書もいらないのです。「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」愛の神こそがイエス様の愛の手本だったからです。イエス様は美しく咲く野の花にも神の愛を感じていました。人間への愛はそれ以上だと教えています。詩編91を見ましょう。「いと高きかみのもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、神は羽を以てあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。」親鳥が雛を抱くようでもあります。佐渡のトキの雛も外敵に襲われやすいのですが、親が守っています。ニュースで見る自分もはらはらしている。それはともかく、この神の愛を信じる時に、必ず、自然に愛の行いが生まれてくると聖書は確約しています。
ですから、わたしたちは神の愛を黙想することが大切です。黙想する上で、特に重要なのは、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もできない。」(ヨハネ5:19)「わたしは自分ではなにもできない。」(ヨハネ5:30)「わたしが、自分勝手には何もせず、ただ父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。」(ヨハネ8:28)などの言葉です。察しの良い人はすぐにわかるかも知れません。これらの言葉に共通なのは、驚くほどの、無力感、弱さです。これは無気力ではない。人間力の否定です。人間の力の否定こそが、神の力の肯定なのです。群衆から離れ、友や、家族から離れることなのです。人の満足、人の賞賛、人の批判を忘れることなのです。
その証拠に、16節を見ますと、イエス様はわたしたちの能力を否定しています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。」悩んでいた自分にとって、感銘深い言葉でした。悩みの根源は人間への集中です。それは神の無視です。ですから、人生は無力で良いのです。
強い者が神の愛を知るのではないです。無力であればあるほど、神の愛がすぐ近くにあることを実感するのです。例えばコップ一杯の水。これは何の意味もありません。しかし、弱くて死にかけていて自分で水を汲むこともできない、熱で体が燃えそうである。そんな時に優しい人が気遣てくれて差し出す人生最後の水は神の愛を証するものではないでしょうか。
「わたしの命じることを行うならあなたは友である。」弟子たちを友人だと呼んでいる箇所はここしかないようです。ある聖書学者はこう言っています。「これは実に厳粛な、人生の分岐点である。しかもこれに耐えうるか否かは、イエスの御言葉を聞いて行うか否か、という一点にかかっている」。しかし、行いへの呼びかけは、律法ではなく福音であり、祝福の到来を告げるものです。ここが大切なところです。福音を知るまでは、人間はいわば愛の青い鳥を探す人ともいえるでしょう。福音を知ってからは、わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛していることを知るのです。それがキリストの生き方でした。キリストを模範とすることは、神の愛に生かされることです。それは自分への確信ではなく。神の善を信じる信仰です。神の愛への固い信仰です。健康もないし財産もない、人から見捨てられる場合でもへいきです。わたしが最初に愛したのではなく神が最初に罪多きわたしたちを受け入れ愛し、十字架の犠牲で償ってくださっているからです。それが福音です。わたしたちは福音を信じていかなければいけない。この神の愛を信頼し続けましょう、そのときに、愛する神のため、愛するキリストの体なる教会のために、神を知らない人々のために、何を行うべきかが必ずわかり、実行することができます。

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