閑話休題

カレン・ホルネイ式の自己分析で発見できる自己の姿

カレン・ホルネイはフロイド派の女性心理学者でしたが、権威主義的なフロイドの理論を離れ、独自の境地に達しました。その一つが、自己分析でしょう。権威主義液な精神分析医に頼るのではなく、誰でも、訓練さえつめば、本当の自己と仮の(理想の)自己との違いを見分けることができるのです。しかし、真実な自己を見つめることは痛みを伴う経験です。幸いにして、わたしの場合には、神様にすべてをお任せしていますから。自分の年少期のトラウマとも向き合うことができます。そこでわかったことは、自分にとって、生きることが苦痛だったという事です。まあ、一言でいえば、苦しみの子だったわけです。若いころは、どうにかして、その真実の自己が背負っている苦しみから逃れたいと思っていました。自殺もその一つの手段です。あるいは、依存症も別の逃避手段でしょう。思い出してみれば、若いころにはヘビースモーカーでしたが、あれも一つのニコチン依存による逃避行動だった訳です。自分はアルコール類には弱いので、幸いなことにアルコール依存症にはなりませんでしたが、強ければ、その方向に間違いなく逃避したでしょう。こうした現象を、カレン・ホルネイは詳しく分析しています。ただ、リビドーによる運命論的なフロイド理論とちがって、アメリカに移住したカレン・ホルネイはアブラハム・マズロウとかエーリッヒ・フロムの影響も受けており、前向きな考えも持っていました。どういうことかというと、トラウマに満ちた真実の自己に真摯に向き合い、自己受容していく時に、癒しと成長が始まるというのです。そこで、わたしが思いだすのはマタイ福音書の言葉です。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ福音書4章4節)自分流の解釈をすれば、悲しみの子あるいは苦しみの子である自分から逃げず、ありのままの悲しさを受容した時に、慰めが起こるのです。これは、事実だと、体験的に実感しています。さらに、パウロも悲しみについて書いています。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(第二コリント7章10節)ここで、「悔い改め」の原意とはヘブライ語のシューブであり、この世の事がらに捕われている心が神の愛に向けられることです。創造者である神の絶対愛に集中した時に、わたしたち悲しみの子らは、逃避したり依存したり、怒りを自分や他者にぶつける必要はなくなります。犯罪者の履歴を調べてきたことがありますが、彼らもやはり悲しみの子の場合が多いようです。若いころにキリスト教徒の迫害者であったパウロは、その暗い過去に言及することはほとんどなく、「自分は罪人の頭」という程度しか語っていません。ですが、パウロの書いたものを研究してみると、彼が、この世の悲しみで自分の過去を悔んでいる面はありません。罪人をも愛して下さるイエス・キリストによって啓示された神の絶対愛を確信したからでしょう。逆に、ユダが自殺してしまったのは、「世の悲しみ」にとらわれてしまったからです。わたし自身も、若いころにはトラウマだらけでしたが、神の絶対愛によって救われ、現在でも、まだまだ真実の自己を発見していく必要を感じています。悲しみの子は、きっと、喜びの子に成長するはずです。それが、永遠の命ということではないでしょうか。みなさんも是非、自己分析してみてください。わからない点は、メールでお問い合わせくだされば、知っている範囲でお答えできると思います。(以前は大分いのちの電話創設時にカウンセリング訓練担当理事でした。)

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