神の謙虚さから学ぶ説教
「ひたすら低姿勢」 ルカ7:1-10
企業の過失問題や政治家の謝罪の会見を見ますと、普段は上から目線の人々がおかしいくらいに低姿勢です。低姿勢あるいは謙虚さは怒りを鎮める謝罪効果があるといわれます。実に、形式的な低姿勢だけではなく謙虚さは神の怒りも鎮めると聖書にあります。「ヒゼキアはエルサレムの住民と共に、思い上がりを捨ててへりくだったので、その時代に彼らが主の怒りに襲われることはなかった。」(歴代誌下32:26)
今日の旧約聖書の日課では、神殿での異国人の祈りを神様が聞いてくださるようにソロモン王が願ったとあるわけです。新約聖書の百人隊長の願いと同じです。これは他者の幸せのためのとりなしの祈りです。今から3千年も前にこうした万民平等の意識を持てたことは驚くべきことだと思います。もうすでに神の御霊の働きがあったのです。
今日の福音書の日課を見ますと、イエス様は教えを与えた後で弟子のペトロたちの地元である、ガリラヤ湖畔のカファルナウムという町にいきました。2千年前には、ガリラヤ湖一帯は軍事的な要所でもありました。ティベリアというローマ皇帝の名前をつけた大きな都市もありました。ローマ帝国としては南のエルサレム周辺に多数の軍勢を置くと愛国的なユダヤ人の反感を買うので、東の砂漠の中のマサダとか、エルサレムの北約200キロのガリラヤ地方、そして西の海岸にあるカイサリアなどに軍の拠点を置いていたのです。それら各地に約6000人で構成される師団が駐在していたようです。ローマ軍は良く組織されていまして、100人隊がセンチュリアでこれが60集まって作った軍団が師団(レギオ、マルコ5:9参照)と呼ばれていました。ローマ帝国内には、28の軍団があり、イタリア本国をはじめ40くらいの支配地に駐留していましたが、全体の10分の1くらいがイスラエルに集中していて、危険な地帯だとみなされていたことがわかります。
当時のローマ軍はユダヤ人に嫌われていました。ただ、全員がそうであったわけではありません。このローマ軍の百人隊長のことを考えますと、彼は異国人、異邦人という立場にもかかわらず、地元のユダヤ人の尊敬を受けていました。彼は、単なる態度だけではなく、ユダヤ人を愛して実際に会堂までたてたからです。だから、長老たちがこの百人隊長のために一生懸命にとりなして、彼の部下の病を癒してほしいと願ったのです。当時のローマ政府の方針は、彼のような将校に高給を与え地域の福祉に生かし、地元の好意を勝ち取ることでした。その植民地政策は現代でも参考になるかもしれません。貧しい移民の人々に手厚い福祉の恩恵を与えるならテロ防止にもなるでしょう。しかし、実際は逆です。
それはともかく、イエス様も基本的にはユダヤ人伝道だけを考えていました。しかし、この場合には、長老たちの熱意に動かされて一緒に出かけています。そして、遠くに群衆をみて、百人隊長はイエス様がきてくださったと直感したわけです。そこで、また使いをやって、6節以下にある非常に低姿勢な言葉を伝えたのです。「御足労にはおよびません。」「お迎えできるようなものではありません。」「自分からお伺いするのさえふさわしくない。」彼はイエス様の中に働く神の偉大な権威を感じ、心からの低姿勢を示したのです。
これにはイエス様も感心しました。イエス様にとって信仰とは何だったのか。理屈ではありません。神の権威に絶対的に服従する、心からの低姿勢です。そこにはユダヤ人とか異国人とかの差別はありません。ソロモン王が異国人のために祈ったのと同じです。ですから、聖書にも書いてあります。「人を分け隔てするなら、あなたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます」(ヤコブの手紙2:9)信仰とは理屈や民族の区別とは関係なく、神への服従の姿勢と、それを実践する行動のことです。
さて、イエス様はこの百人隊長が神の権威に絶対的に服従する低姿勢に感心したのです。イスラエルでさえこれほどの謙虚で実際的な信仰を見たことがないと絶賛しました。百人隊長は、「行け」いう命令の重さが命がけであることを知り尽くした人でした。それはまさに、ローマの軍団の中で鍛錬された究極の低姿勢だったのです。そしてまた、この百人隊長が部下の為に必死で癒しを願った態度にも、身分の差別がありませんでした。自分の為ではないのです。百人隊長から学ぶのは、自分のためではなく、家族の救いのため、友だちのための熱心なとりなしの信仰です。わたしたちも他者のために熱心に祈るときに、自分が何をすべきかが聖霊によって示されるでしょう。
ここで謙虚な見本として、国連事務総長となって平和に貢献し、飛行機事故で死んだあと、ノーベル賞を受けたスウェーデン人、ダグ・ハマーショルドの言葉から学んでみましょう。彼は言いました、「謙虚な人は人の話に耳を傾けることができる。」確かに、百人隊長はイエス様の教えをよく聞いていました。謙虚な人は人生を見限りません。百人隊長は「部下を助けに来てくれるように」イエス様に熱心に頼みました。謙虚な人は権威を振りかざしません。百人隊長は自分が軍団の中の60人の隊長の一人としての権威は持っていたけれど、イエス様を自分の屋根の下にお迎えできるようなものではないと述べました。謙虚な人は自己吟味します。百人隊長は自分を兵隊と同じようにイエス様の権威に従うものとして理解しました。また、ダグ・ハマーショルドの祈りというのがあって、彼は主の祈りを次のように読み替えています。「わたしの名ではなく御名があがめられますように。わたしの国と支配ではなく、あなたの国と支配がきますように。わたしの心やわたしの意志ではなく、あなたの御心とあなたの意志が実現しますように。」絶対的に神第一です。
神第一であった百人隊長の部下はイエス様に出会うことなく癒されました。百人隊長が彼に代わって神への低き心を貫いたからです。部下の信仰ではありません。ソロモン王の願いのように「他者の信仰によって救われる」という救いの原型を聖書は示しています。また、この謙遜な姿勢は新約聖書にも述べられています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6)これは、箴言3:34からの引用ですが、第一ペトロの手紙5:5にも掲載されていて、教会の長老、つまり現在の神父や牧師など、神の派遣した者に従うことが勧められています。この対極はヘイト・スピーチや、悪意を持ったうわさ話です。それは、神の広い愛を無視して自分の国や自分たちのグループ、自分の意見が一番正しいと思う事です。しかし、神の永遠の愛を理解すると、「神は正しい者にも正しくないものにも雨を降らせてくださる。」(マタイ5:45)、というイエス様の言葉がわかり、謙虚にされます。
自分とは違う異国人を大切にしたヒゼキア王の謙虚さと低姿勢により、エルサレムは一時的に神の怒りから救われました。また、イエス様がわたしたちに代わって低き姿の極致である十字架の死を負ってくださり、わたしたちは神の怒りから永遠に救われました。この救いにおける、神の謙虚さと他者性とを覚えて、感謝しましょう。そして、百人隊長の信仰に学び、自分のためではなく、家族のため、友だちのため、社会と国家のために、謙虚な姿勢が必要であることを覚え、神に救いを求めていきましょう。まさにその低き姿こそ、イエス様が身をもって示された福音伝道です。