悲しみが終わることを願う時に読む説教
「もう泣かないで」 ルカ7:11-17
人生には泣くことしかできない悲しいときがあるものです。江戸末期の人である木喰(もくじき)上人は笑顔の仏像彫刻で有名です。彼は60歳くらいから仏像彫刻をはじめ92歳まで活動しましたが、その笑顔の作品が出るまでは悲しいことがたくさんあったようです。聖書にも「今泣いている人は幸いである。あなた方は笑うようになる。」(ルカ6:21)と書いてあります。涙の後の笑顔が本物の笑顔です。自分で何らかの解決ができるなら、それに向かって努力すれば良いわけです。しかし、自分にはどうすることもできない状態もあります。大切な人、大切な事柄を失う事、傷つくこと、誤解されること、誰からも愛されない事、等々。聖書はそんな悲しさを避けられないわたしたちに何を告げているでしょうか。悲しみの後に笑顔が本当に来るのでしょうか。
今日の福音書の日課を見ますと、悲しみの深さが感じられます。ナインという町は、イエス様の故郷であるナザレからは遠くない町です。イエス様はこうしたガリラヤの地域で弟子たちと伝道したのです。神の救いを伝えたのです。しかし、人々には様々な問題がありました。イエス様は苦しむ人々にどのように福音を伝えたでしょうか。
当時の町は城壁で囲まれ、町に入るのには門を通りました。わたしがエルサレムに住んだ時、スーウェーデン神学研究所の建物は100年以上前の昔の造りでした。町もそうでしたが、昔の家も石塀で囲まれて、外から敵や泥棒が侵入しない構造になっていました。いわば、小さなお城です。そこの塀は厚くできていて、その上が通路になっています。門の上も歩けるようになっていますが、その上に立つと下を取る人を見下ろせる穴が開いていました。どうしてこんな構造になっているのかを聞いてみました。挨拶するのかな。すると、盗賊が侵入しようとした時にここから煮えたぎった油をかける穴だというのです。アリババと40人の盗賊の昔話のようだと思いました。その昔話でも、賢い女召使いのモルジアナはアリババを捕えようとカメに隠れていた盗賊に煮え立った油をかけてアリババを救っています。ちなみに、アリババのババとはお父さんという意味だそうです。イエス様が「アバ」と言って祈ったのにも共通します。
余談はともかく、それほど大きくない町に、イエス様と弟子たち、それに大勢の群衆がきたのですから、町は大騒ぎだったと思います。ある面では、イエス様の群衆は希望に満ちた群れでした。ある人は癒しを賛美し、他の人はイエス様こそ自分たちを苦しめているローマ帝国から解放してくださる新しいリーダーだと思って賞賛していたでしょう。イエス様が人類の罪の贖いのために苦しみ、十字架にかけられると考える人はほとんどいなかったでしょう。
ところが、この騒がしくも明るい群衆がナインの町の城門のところまで来ますと、暗く悲しい人々が門から出てきました。墓地は、城壁の外に置かれるのが習慣でした。ですから、イエス様が十字架にかけられた時も、埋葬された場所はエルサレムの城壁の外でした。城壁の中が生きて元気な人の世界で、その外は盗賊がいたり、野獣がいたり、死者が置かれる死の世界でした。町の門はまさに、この明暗を分ける生と死の境界でした。悲しむ人たちは、ある寡婦の死体のはいった棺を運び出すところでした。それは、この息子にとっても、家族や友人にとっても悲しい別れの時でした。とくに、この息子は母親にとって唯一の希望であり、心の支えであったわけです。大勢の町の人とありますが、原語では「おびただしい数の人」が付き添っていたと書いてあり、この母親に人望があり、人々から慕われていたことが分かります。亡くなった一人息子も多くの人から慕われていたのでしょう。ただ、この人々の群れにはイエス様の一行のような希望や喜びはありませんでした。悲しみと涙しの門からでてきたのです。
すると、「主」、キュリオスであるイエス様はこの母親を見て、はらわたがえぐられるような深い痛みを覚えられたというのです。この「主」とは、自分の全生活をケアしてくださる方という意味です。傍観者ではない。共に苦しむ神です。これは神とイエス様だけに用いられる表現です。痛みも神の痛みの神学の痛みです。この痛いほどの憐みの心は、実は神の愛の現れです。その愛の人に、母親の悲しみは伝わってきました。そして、イエス様はもう泣かないように言いました。なんで悲しいのかと尋ねません。お釈迦様の教えにあるように、嘆く母親に、町を回って死者を出したことのない家を捜してきなさいともいいません。だた、もう泣かなくていいよとだけ言われたのです。それは、深い神の愛に満ちた言葉でした。葬儀の人たちには、彼らがどんなに親切でも言えない言葉でした。神の言葉でした。人生の混乱のなかで、「もう泣かなくていい。もう泣く必要はない」という、一本の道が示されたのです。嘆く材料は多くあります。しかし主の一本の道、わたしたちの全生活をケアしてくださる方のが一本の道が現れている。これはいわば悲しみの終わりの宣言でした。こんな宣言のできる人間はいません。せいぜい、一緒に泣くだけです。イエス様が救い「主」キュリオスだという事は、この事です。その一言で、人生の流れを、悲しみから喜びに変えることが出来たという事です。
その後で、弟子たちが目撃したのは驚くべきことでした。イエス様は、死体を入れた棺に触れ、原語では「死者の世界から立ち上がれ」と命じました。手を貸して立たせたのではない。自分で立ち上がりなさいと命じたのです。それは、罪に縛られ、死の力、悲しみの力に沈む者に、立ち上がれと言う命令形です。決して感傷的な同情ではない。あなたは、そこに横たわっていてはいけない。死から命の世界に移りなさい。死んだ人も移される。いや、移れるし、神が移してくださる。だから悲しみよ去れ、消えてしまえと命じたのです。これは、まさしく創世記の出来事と同じです。世界が混沌としていた時に、神は「光あれ」と命じたのです。神は死を滅ぼし、命を与える方です。
イエス様の言葉で、若者は自分で立ち上がり、生き返りました。イエス様は彼を母親のもとに返しました。これはまさに死から命への復帰でした。死と悲しみの終わりという道筋が既に見えてきたのです。ただ、弟子たちにそれが本当にわかるには、まだ十字架と復活、聖霊降臨が必要でした。それにしてもイエス様のうわさがイスラエル全土に広がったのも無理からぬことです。悲しむ顔は笑顔となり、嗚咽の声は笑い声に変わったのです。
イエス様は今日も働いています。わたしたちの嘆きを決して批准し、比較し、批判し、非難し、否定しません。嘆きそのままを肯定し、受け止め理解してくださいます。それだけではない、自分では何度やっても立ち上がれなかった苦しみがあっても、あなたではない、神が命じるのだから必ず自分の足で立ち上がることができるのだと保証してくださいます。安心しなさい。あなたは立てる。それに、ここでは信仰心さえも問題にされていない。もう泣かないで、神が失なわれたもの、人であれ物であれ、状況であれ、それを取り戻してくださる。いや、もっと豊かにしてくださる。悲しみを経て喜びは必ず輝く。神は悲しむ者を決して見捨てない。だから、もう泣く必要はない。旧約の日課で、エリヤに母親は言いました、「主の言葉は真実です」新約聖書にはこうあります、「あなたがたには世で苦難がある、しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)この言葉は真実です。神は、パウロが親の体内にあるときに決定し福音を伝える器としたとガラテヤ書にあります。わたしたちも生まれる前から、神が今日というこの時を選び、もう泣かなくていい、あなたは自分の足でたてる、泣かなくていいという主イエス・キリストの慈愛溢れた言葉を聞かせてくださる決定をされている。実は、この真実の福音を聞くこの日のために、人生があったともいえるのです。神はわたしたちに永遠の笑顔を与えてくださり、福音を伝える者として確かな道を与えてくださるのです。