「悪魔を祓う」 マルコ3:20-30
ある神学者は「悪魔との戦いこそ、福音宣教の中心的課題であるということを、深く受け止める必要がある」と語っています。これは、かなり難しいことです。おそらくわたしたち人間の力では、理解することもできないでしょう。確かに、へブライ書には、イエス様の使命は「悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖の為に奴隷状態にあった者たちを解放する」(ヘブライ2:15)ためだったと書いてあります。しかし、わたしたちには、イエス様が目指された福音宣教はなかなか分かりません。教会堂をたてるとか、自給するとか、多くの会員を持つことは伝道に悪くはないでしょう。でもイエス様の伝道とは同じではありません。
日課である、マルコ福音書3:22を見ますと、イエス様はベルゼブルという悪魔に取りつかれていると非難されました。ベルゼブル、ルシファ、サタン、デビルなどは悪魔の総称です。特にサタンは、もともとヘブライ語で「善に敵対する者」という意味です。イエス様は神に敵対する者と思われていたことがわかります。
さて、イエス様が非難された、ベルゼブルなどを含む悪魔の存在はどうなのでしょうか。単なる意識の中の存在なのでしょうか。わたしも以前は存在を強く考えていませんでした。今は違います。悪魔は意識ではなく実際に存在します。「ナルニア物語」の作者であるCSルイスというクリスチャン作家が書いた「悪魔の手紙」という本があります。これは年老いた賢い悪魔が、甥の新米悪魔にアドバイスした手紙を集めたというストーリーになっています。悪魔の作戦は、人間とはいかに弱い存在か、いかに周囲の環境に染まりやすい存在かということを、ターゲットである人間自身には悟らせないように、目の前にある現実に集中させておこうとするのです。そして、「祈ったってしょうがないよ」「あきらめることだね」「聖書読むよりほかのことしたほうが楽しいよ」などと心の中にささやいて誘惑をしかけてくるのです。ルイスだけでなく、今から700年くらい前にダンテという人が書いた神曲という本に、地獄篇があってそこにも悪魔の世界が描かれています。興味深いのは、サタンの支配する地獄の上層部には、自制喪失の世界がある。欲望を抑えられない。その中に浪費と吝嗇(りんしょく:ケチ)が入っている。使うのも使わないのも制御できないのはサタンの世界です。そこで、地獄の下層に降ると、暴力などがでてくる。しかし、最下層ではない。一番下には、偽善と反逆者の世界がある。そこは氷の世界です。不思議なことに、そこを通り抜けると、天の世界に行くのです。地獄の理解は天国に関係するのです。
実際に、神の子であり天国の人である、イエス様は地獄の悪魔からの誘惑を受けています。例えば、悪魔はイエス様に、石をパンに変えろと要求しています。悪魔の特徴はイエス様を助けるかのようすをしながら実は、神に反逆させ、人の力を信頼させることです。そして、暫くは人の力に信頼させておいて、悪魔の手段は、人間にはどうすることもできない試練に落とし込むのです。そうすると、人間に信頼していた人は、絶望に陥り、神を呪って死ぬことになります。これが悪魔の計画です。悪魔の手段は、人間の罪深さや無力を説くのではなく、神の側に立つかのように偽装しながら、自分で自分を救え、人間を神の上にたてろと教えるのです。いや、もっと微妙な誘惑は、直接に神の上に立てとは言いません。それでは神への反逆が明白だからです。悪魔は「神も大切だが、やはりこの世の助けも必要ではないか」と言わせるのです。欺瞞といわれるものです。地獄の深い部分です。イエス様は「神と富につかえることはできない」と教えましたが、多くの意見は、確かにそうだが財産も必要だとなるのです。これはクリスチャン同士の話し合いでも出てくる意見です。CSルイスはそれを知っていたのです。すべて神に委ねて、すべてを信じて、全力を尽くしましょうではないのです。人間の計画が大切でしょうというのです。それに対して、イエス様は「神を拝み、ただ神に仕えよ」と言って悪魔を退けています。「ただ神に仕えよ」これがイエス様の伝道の中心でしょう。
また、イエス様が誘惑に打ち勝って、弟子たちの伝道派遣した時においては、「病人を癒し悪霊を追い払いなさい」(マタイ10:8)と命じています。「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をあたえた」(ルカ9:1)などと、ルカ福音書ではまず初めに悪霊への勝利が語られています。しかし、聖霊の助けなしに、わたしたちは悪魔との戦うにはあまりにも無力です。ダンテの言う、自制喪失の地獄とすら戦うこともできません。
再度、福音書の日課を見てみましょう。イエス様がベルゼブルに取りつかれているという悪評を受けました。しかし、イエス様の回答は、もし彼が悪魔の手先ならどのように悪魔を追い出すことができるのだろうかということです。ユーモアです。ここで、イエス様の身内の者が「彼は気が変になっている」と言ったのは、ある面で当たっています。もともとの表現では、彼は自分自身ではない、という意味です。確かに、イエス様は自分自身ではなかったと言えます。自分が中心ではなく神がイエス様のすべての中心だったからです。マザーテレサのようにヒンズー教徒に尽くした人は気が狂っていると思われたでしょう。田中正三のように公害に反対した人も、国家プロジェクトへの反逆者だったでしょう。神殿の存在を否定したイエス様も神の冒涜者、サタンの手先と考えられたのです。世の常識論が実は危険なのです。有名な箇所は、ペトロがイエス様に忠告した場面です。イエス様が、十字架にかかると告げると、とんでもないことですと注意したのです。その時、イエス様は「サタンよ引き下がれ。神のことではなく人間のことを思っている」と告げています。普通の常識的な人間が悪魔の支配下にあるのです。ルターは言いました「人間というものは、神の言葉や、神の子らを迫害するものであることには変わりはない。」
ですから、パウロは、赦さないことが悪魔の支配下に置かれる要因だと書いています(第二コリント2:11)
ベルゼブルと呼ばれたイエス様はそれをジョークでかわし、並行記事のマタイ12:28では「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているなら、神の国はあなた方のところに来ている」と述べています。悪霊祓いは魔術でなく、単なる癒しではない。神の国の到来なのです。イエス様の宣教の最初の言葉は、「悔い改めなさい、天の国は近づいた」でした。救い主としてイエス様を信じる時、人はパウロのように赦しの人になります。赦すとは、自制喪失から解放され、怒っても怒りを収めることのできる者になることです。ですから、ダンテの地獄篇にある、自制喪失者は癒され、偽善者は謙虚なものに変えられるのです。悪魔の力、地獄からの解放者はイエス様です。ですから、どんな罪も赦されるが、神の助け手である聖霊を否定してはいけないのです。
最後にエフェソ書6章を見ましょう。「悪魔の策略に対抗してたつことができるように、神の武具を身につけなさい。わたしたちの戦いは悪の諸霊を相手にするものです。」信仰と祈りに立ち、ますます、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖の為に奴隷状態にあった者たちを解放してくださる主により頼みましょう。わたしたちも必ず、ペトロのように、パウロように癒され、悪霊を祓うことのできるもの、イエス様の伝道を受け継ぐ者とされるでしょう。