「右も左もわからない」 ルカ9:51-62
人間にはどうしたらよいのかわからない時があります。人間は誰でも自分にとって少しでも有利な決断をしたいものです。例えば、ドーナツとハンバーグがあるとします。ドーナツは甘くておいしい。しかし、油で揚げてあるし砂糖やチョコレートもついている。太りそうだ。ハンバーグはどうでしょうか。一応、肉のパテも入っていて、タンパク質もある。しかし、これも脂肪分の多いジャンクフードである。どちらが自分にとって良いのだろうか。小さなことですが、悩むところです。まして、もっと重大なことならどうでしょうか。
実はこうした選択の悩みは数千年前にもありました。旧約聖書民数記13章です。エジプトを脱出したイスラエルの民は砂漠で苦しんだ。やっと約束の緑の土地の近くまで来て、調査の者を送った。その一人がカレブだった。帰ってくると、豊富な果物を見せた。少し誇張もあると思いますが、一房のブドウですら、江戸時代の籠のように二人で運ぶくらい大きかった。しかし、問題はあった。そこに住む人々はネフィリムという巨人で、自分たちはイナゴのように小さく見えた。これも面白い誇張です。でも、信仰深いカレブは前進すべきだと言った。他の者は、神はどうしてこんな場所で死なせようとするのか、そんなことなら、エジプトに引き返した方がましだと言った。カレブは言った。神に背いてはいけない。敵の強さを怖れてはいけない。しかし大多数は反対した。何が自分たちに良いのかわからなかった。それは、神の御心を信じていなかったからです。以前は、エジプトを嫌い、後になって、ああエジプトの方がずっとましだったと言った訳です。実は、その姿は、わたしたちの姿でもあります。
旧約日課のヨナ書も同じです。神がニネべを滅ぼすことを告げなさいというので、そんな役目はしたくないと思い、一時、ヨナは逃げましたが、大きな魚に飲み込まれてやっと助かった。今度は神の警告を告げて、あと40日でニネべは滅びる、と告げた。すると、ニネべの人々は神の前に悔い改めてしまったので、裁きは下らなかった。それがヨナは不満でした。そのヨナに神はトウゴマの木を使って諭した。そして言った、「ニネべには、右も左もわからないひとがたくさんいる。」わたしはその人びとも大切にしている。これもわたしたちの姿を教えています。
新約聖書の日課を見てみましょう。ユダヤ人とは仲が良くなかったサマリア人の村を通ってイエス様はエルサレムに向かいました。だけれど歓迎されなかった。そのことが弟子たちは不満だった。イエス様を無視する人々が許せなかった。そして、神にお願いして天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしてもらいましょう、とまで言った。彼らは、神がサマリア人の心をまだ福音に閉ざしているのを知らなかった。「神は悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。」(エゼキエル33:11)という言葉も理解しなかった。彼らは困難の意味を知らなかった。約束の土地の巨人部族のネフィリムへの恐れも同じです。こうしたネフィリムのような得体のしれない困難は神が、神自身への信仰を成長させるために置いているのです。それを知らないで、大多数はこんな障害があるから困る、という考えになってしまいます。自分にとって、歓迎してくれるか、無視されるか、敵対しているか、人生は良いものか悪いものか、それだけが問題になってしまう。イエス様は教えました。「自分の事で思い悩むな」(マタイ6:25)「神はあなたの必要を知っておられる」(マタイ9:32)顔を神に向けなさい。あのとき、ネフィリムさえも怖れなかったカレブのような神への信仰を求めなさいということです。
それから、イエス様は弟子たちが、あまりにも「右も左もわからない」ので戒めました。ただ、イエス様はヤコブとヨハネの気持ちは十分にわかっていて、優しく指導したことでしょう。そして、さらに進んでいくと、先生の為ならどこにでもついていくと言う人が現れました。もし、イエス様が人間的な事柄だけを考えていたなら「それは嬉しい、ぜひ一緒に来てください。」と言ったでしょう。しかし、この人には、わたしには休む場所すらない、と言っています。ある先生は書いています、「イエス・キリストは熱狂にもとづく決意の大げさな表現の背後に、何がかくれているか良くご存知です。」わたしたちは明日の事すらわからないのです。その上、イエス様の十字架の苦しみを知らないのです。弱さと苦しみを避けてしまう。ですから、イエス様はその人の願いを断ったわけです。他の人には、わたしに従ってきなさいと呼びかけました。ただ、その人は親の葬儀が気になって、先ず葬儀の義務を果たさせてくださいと、すぐには従えませんでした。彼の人生の優先順位が「先ず」という表現にでています。人間関係、家族の関係を第一にして、神の事が第二、第三になっていることが分からなかったのです。神のことは家族以上です。もう一人の人も、「従いますが、家族に別れを告げてからにさせてください。」と言って従えませんでした。後ろ髪引かれていたのです。神の国の事は何だかわからなかった。来たいという人を断り、迷う人を断るイエス様ってどんな人だろうと思います。表面的には天邪鬼です。賛成と言えば反対、反対なら賛成。本当は逆です。イエス様こそ人生の道、右に行くべきか左に行くべきか、ついて来るべきか残るべきか、を本当に知っていた方だったということです。
わたしは道であり真理である。(ヨハネ14:6)イエス様が一番知っていた方だったのは事実です。旧約時代から現代までわたしたちは、進むべき道を知らない民だと聖書は告げている。滅びるべき民です。しかし、イエス様は安心していい、あなた自身では、右も左もわからないかもしれない。しかし、道であり真理であるわたしがあなたを必ず助け、必ず救う。わたしを見なさい。いや既に、あなたはわたしの言葉を、中川牧師の説教を通して聴いている。わたしを既に見ているのだ。自分ではわからなくても、まだ実感していなくても、既に御国がきている、既に救われている。恵みが既に届いている。そう語ってくださる。
こんな話があります。ある日本人牧師が、ブラジルのアマゾンにある部落に伝道に行った。ピラニアのいる川をボートでさかのぼり、船着場からジャングルを歩いて行く。日本人牧師は、地図もないのに薄暗いジャングルをどんどん進んでいくガイドを不安に思って通訳を通して聴いた。この道は右も左もわからない。地図もない。わたしたちは一体、目的地の村に着けるのか。現地の案内人はにっこり笑って言いました。あなたが、右も左もわからなくても安心しなさい。わたしが道です。聖書と同じです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければだれも父のもとに行くことが出来ない。」(ヨハネ14:6)その意味は、わたしたちに自分で道を苦労して捜しなさい、しっかりと正しい道、正しい選択をしなさいではない。そうではない。どうしても正しい判断が出来ず、右も左もわからずに迷ってしまうわたしたちに、あなたはわたしを見失わなければいい。そう呼びかけてくださる。礼拝するだけでよい。礼拝を通し、聖書を通し、信仰を通して、イエス様を見失わなければ必ず目的地に着ける。わたしはそう思います。御国とはまさにイエス様です。イエス様がしめされる時に、すでに御国は来ている。後ろを向いたり、よそ見をしてはいけない。ただ、救い主をみつめ、その十字架の道に従いましょう。
人生の岐路で、分かれ道、むずかしい選択のときに、イエス様はいつも大きく手を伸ばし、心配しないでいい、わたしに従いなさい。家族の事、社会での責任、色々なことが心を支配するが、それは大切ではあっても第一ではない。自分にとって何が良いだろうではなく、神の示す道こそが最善です。自分が選択するのではなく、愛なる神があなたに最善の道を選んでくださり、導いてくださる。
ローマ12:2「この世に倣ってはいけない。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるかをわきまえるようになりなさい。」とあります。この御心に生き、ネフィリムや砂漠のような様々な困難の潜む道も、イエス様に従って迷わず、勇気を持って前進していきましょう。