同じ大学の後輩に恨みをもって駅で硫酸をかけた男が沖縄で逮捕されました。犯人の写真も公開されていましたが、写真を見る限り、あまり明るい性格のようには見えませんでした。なにしろ、憎しむ相手の顔に硫酸をかける手口からして、暗い執念を感じさせます。おそらく、過去になんらかの恨みを相手にいだいて、それが赦せなかったのでしょう。ここには、恨みと赦しの問題が隠されているように思います。歴史的に見ると、江戸時代には仇討の制度が公的に認められていました。忠臣蔵なども一つの仇討です。ただ、仇討がまた次の仇討を生まないように、つまり憎しみの連鎖を防ぐために、仇討制度にはかなり細かい規定があったようです。現代の日本では、警察は民事事件にはあまり介入しませんし、司法に訴えることのできない恨みを抱えた人もかなり多いのではないでしょうか。わたし自身も、他人からかなりひどい扱いを受けた経験もあります。学生の頃には、暴力で頭の視神経に障害を受けて、何年間ものあいだ左右の目の焦点があわなかったこともありました。幸いにも、キリスト教信者になってから、恨みの問題は解決しました。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。(中略)悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ信徒への手紙12章19節以下)と聖書には書かれています。硫酸男も刑務所で自分の非を自覚することを祈りたいものです。旧制ロシアの作家であったドストエフスキーも刑務所の中で聖書を読み、キリストの救いを信じて、赦しを理解するようになったのです。