今週の説教

死について考える時に読む説教

「あの世では金持貧乏の大逆転」  ルカ16:19-31

今年の9月11日は、あの悲惨なテロがあってからちょうど20年になります。これも小規模の戦争です。そして、戦争では勝者敗者双方に多くの犠牲が出ます。アルカイダがアメリカに対して抱いた憎しみの背景には、アメリカ軍による多くの犠牲があったと思います。そして、テロの後にも、報復としての攻撃で多くの犠牲者がでました。正しい戦争はありません。ただ、戦争で死ぬにしても、その他の理由で死ぬにしても、死という事について考えておく必要があるのではないでしょうか。今日の日課の少し前に書いてありますが、イエス様の信念とは、「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」という事でした。イエス様はいつも人の考えではなく神の視点は何かということを教えました。わたしたちには参考になる考え方です。つまり、自分の死ではなく、神という視点から考えた死の事なのです。

今日の箇所もイエス様のたとえだと思います。これはルカの福音書独特の話であって他の福音書には平行記事はありません。専門的にはQ資料からの引用だと考えられています。これもルカの福音書の特徴ですが、何度も金持ちと貧乏人の対比がでてきます。

イエス様の時代にも金持ちは遊び暮らすことができました。この家の門の前にいた乞食のラザロは残飯をもらって暮らしていたのです。原文で、ラザロはこの金持ちの門のところに置かれていた(横たわりではない)と、受動態で書かれています。彼は自分の足で金持ちの家に行って物乞いしたのではなく、周りの人たちが彼をそこに運んでいって放置したという意味です。日本も金持ち国であり、年間の食品廃棄物が1700万トン、一日に4万6千トンですから、長さ300メートルほどの大型の輸送船一隻分の食品が毎日捨てられていることになります。以前、東京の帝国ホテルでバイトをした人が、残り物がおいしくて豪華だと言っていました。いいアルバイトですね。ただ、世界では一日に4万人が餓死しているそうです。日本の廃棄食品の千分の一でも与えられたらその人達は死ななくても良いでしょう。イエス様の周囲にも餓死して死ぬ人がいました。ただイエス様はこれを食料の問題としてだけ考えてはいません。

ラザロも死んで、金持ちも死にました。ラザロの名前は「神はわが助け」という意味です。エレアザルという言葉を簡単にしたものです。この名前も譬え話の伏線になっていると言えるでしょう。この世では不公平はあっても、神はそのことに心を痛めておられる。不思議なことに、何も良い事をしなかったラザロは天使に助けられて天国に行きました。注意したいのは、ここで門前に置かれていること、天使に運ばれることなど、自分ではどうすることもできない無力な受動的な人間が神に愛されているのです。金持ちの方は地獄ですから、ここで金持貧乏の大逆転が起こっているのです。金持ちの落ちこんだ地獄は火の池地獄のような所でした。地獄だから苦しみだけあって熱くても死なないから苦しいわけです。喉の渇きも苦しいものです。ここで、ギリシア語の原語では金持ちはアブラハムに、エレーソンと叫んでいます。これはキリエ・エレイソン(主よ憐れんでください)と礼拝で唱える言葉です。弱い者の発する言葉です。強い者が逆転して弱いものになったことが示されています。

ただ、譬え話の金持ちは、ここに至っても、弱い人の気持ち、受動態の人の気持ちにはなりえません。本当は神の裁きを受けているのに、ただ「もだえ苦しんでいます」としか言えません。自分だけでなく、他者がいること、神様がいらっしゃるという視点が見えてきません。強かった金持ちも、彼が求めたのは、小さな小さな事でした。人間は小さな恵みだけでも本当は十分に幸福になれるわけです。しかし、アブラハムはその要望を断りました。

天国のアブラハムは言いました。あなたは生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは悪いものをもらっていた。死後にはその関係は逆転する。神様は公平なのです。バランスがあるのだと思います。苦しんだことは無駄ではなく、その後に喜びが与えられるのです。ここでも注意すべきは、良い生活は自然に起こっているわけではなく、原文では「受け取った」と書かれています。つまり、神が与え主で、わたしたちが人生を受け取っていることを忘れてはいけないのです。金持ちの苦しみも偶然ではないのです。

この神の公平のバランスを変えることができないと悟った金持ちは自分の5人の兄弟たちを助けてくださいと願います。しかし、アブラハムの答えは聖書でした。つまりイエス様の答えも聖書なのです。モーセと預言者というのは、モーセ5書と預言書の事です。これに聞けば、何をなすべきかが分かるというのです。聖書にはわたしたちがどのように生きるべきかが書かれています。

ここでイエス様の譬えは終わります。消費税があがっても日本はまだ豊かな国ですから、わたしたちは自分たちを金持ちの立場においてみるといいですね。死んだら、以前はバイオハザードの病人だったような人々が天国で左うちわでリラックスしているのです。そしたら、なんとなく、釈然としない気持ちになるでしょう。自分たちは、殺人や強盗をしたわけでもない、それなのに何故これほどまでに裁きを受けるのかという疑問です。

イエス様はその問題点をこう指摘しています。聖書に聞かないことがすべての罪の根源である。貧富の差の問題ではない。箴言に28:9にも書いてあります。「教えに耳を背けて聞こうとしないものは、その祈りをも忌むべきものとみなされる。」聖書に聞かないなら、地獄に値する重い罪であると、イエス様は教えています。これはたとえ話ですから、そうなってはいけないよと諭しているわけです。

神の言葉に聞かないことは、神を知らないわけですから、自分が生かされて、多くを与えられていることを知らず、隣人が苦しんでいることに無関心で、愛を知らないわけです。

ルーテル教会のアウグスブルク信仰告白第一条は神についてです。第二条は原罪についてです。それほど愛を知らない罪の問題が大きいという事です。そこにこう書いてあります。「すべての人間は罪を持って生まれてくる。すなわち、神を畏れず、神に信頼せず、肉の欲を持っている。そしてこの生来の疾患ないし悪は、本当に罪である。」旧約聖書日課のアモス書に「災いだ、シオンに安住しサマリアの山で安逸をむさぼる者らは」と書いてありました。金持ちの姿は人間の姿です。しかし、今日わたしたちが礼拝において、(主よ憐れんでください)ととなえ、み言葉を聞くことが出来た事は、神の恵みです。

そして、聖書を通して、罪の重さが分かるのです。大型の輸送船一隻分の食品が毎日捨てられている日本のほかには一日に4万人が餓死しています。わたしたちが金持ちと同じ無関心の罪にあることがわかります。自分の事だけ、あるいは自分の死のことだけに心が占められて、貧困や差別の苦しみに心を痛めない態度、愛のない生活が裁きの対象です。

逆に、わたしたちの罪がどれほど重くても、金持ちでも貧乏人でも、悔い改めて、神に向かい、洗礼と聖霊によって生まれ変わるならば、ラザロと同じように救われるのだとわかるのです。パウロも、第一テモテ1:15で「キリストが罪人を救うために世に来られた」と宣言しています。本当の救いは、わたしたちがどうこうではなく、罪人の為に、イエス・キリストが身代わりになって裁きを受けて下さったことにあります。イエス様は金を非難したのではありません。日々の生活に苦しんでいる人々に、神の愛を教えたのです。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、ラザロのようなものとしてイエス・キリストを十字架につけ、火の池地獄や針の山地獄などの裁きを終わらせてくださったのです。ラザロの中にイエス様がいると発見したのはマザー・テレサでした。彼女は貧しく死んでいる人を助けたのではなく、その人の中におられる救い主にお仕えしたのだと言っていました。全ての苦しみと死の中には神の愛が隠されています。マザー・テレサも貧しい人を救ったのではなく、彼らに救われたのです。死によって命を得たのです。これはまさに、わたしたちのための十字架です。ここに人生の逆転があります。ある思想家が言いました、「大切なのは正義ではなく愛である。」愛とはキリストであり、すべての苦しみと死の中におられる救い主です。

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