印西インターネット教会

死を覚悟した時に命の道が開ける

「主人公は僕だった」というアメリカの映画を見ました。この映画は、ある作家のシナリオに従って、平凡な税務署職員の人生が、思いがけない方向に進んでしまったというストーリーです。この作家のシナリオでは、どんな主人公でも最後は死で終わることになっていました。ここまで見て来ると、これはすべての人の人生の結末に焦点を重ね合わせているのだなと感じます。わたしたちの人生ドラマも最後は死という悲劇で完結するからです。ところが、偶然にシナリオを手に入れて自分の最後を知ってしまった主人公は、その行為が悲劇的な死をもたらすことを覚悟で、バスに轢かれそうになった子供を助けます。本来はそこで死ぬのですが、裏でこのシナリオを書いて暗示を送っていた作家は物語の結末を変えてしまいました。「死ぬことがわかっていて、死から逃げない者を殺すわけにはいかない」というのがその理由でした。死を覚悟した者の勇気に抗することはできないというのです。とても興味深い内容だったので、調べてみると、脚本はザック・ヘルムという人でした。この人物は、脚本の分野で高い評価を得ているようです。生い立ちとか経歴とかはほとんど不明ですが、カリフォルニア州のシエラネバダ山脈にある小さな村で育ったこととか、イリノイ州のカトリック系のデポール大学を卒業したことがわかっています。彼の映画には、宗教的な事は何も出てきませんが、「他人のためにした小さなことによって人生は動いていく」という信念が込められているようです。主人公が、あの瞬間、自らの死を予知しながら、なおかつ他者の救いのために自分の命を投げ出したという行為に、どうしてもイエス・キリストの十字架を連想してしまいます。この映画はどちらかといえば喜劇なのですが、その底流に人生の意味を考えさせる宗教的なものが隠されていました。日本にも「武士道というは死ぬことと見付けたり」(葉隠)という言葉があります。これも単に忠義を尽くしてで死ぬだけではなく、誰にでもある死から逃げず、他者のために敢えて死を選択する覚悟と、その先にある命を志向しているのではないでしょうか。9・11の悲惨なテロから20年たちましたが、生存者の証言によると、崩壊前のワールドトレードセンター・ビルから脱出するのに誰もが必死だった時、逆方向に階段を登っていく消防士たちの目には「自分たちは生きては帰れない」という覚悟が現れていたそうです。誰の人生シナリオにでも、遅かれ早かれ死という結末がくるのですが、それを逃げないで他者のために役立てる時に神様はすべてをハッピー・エンドに書き変えて下さるように感じます。聖書ではパウロもこの事を述べています。「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住かを上に着たいからです。」(コリント信徒への手紙二;4章4節)そして多くの人々がこの事を知り、神に栄光を帰するようになるのです。キリスト教の核心は死から命へのベクトルだからです。

モバイルバージョンを終了