今週の説教

自分に絶望したら、逆に希望に近くなることを学ぶ説教

「サタンよ下がれ」        マルコ8:27-38

イエス様は、イスラエル北部のフィリポ・カイサリア地方に伝道しました。これはダマスカスの方面であり、ゴラン高原の付近です。そこはパンの神が信じられていて、パニアスという地名までありました。ただそれは本当の神だったでしょうか。現在でもパンの神を信じている人はたぶんもういないでしょう。

この町は、ローマ皇帝アウグストがヘロデ大王に与えたものです。そして、ヘロデの息子の一人のフィリポがこの町を美しく整え、皇帝の意味である、カエサル(英語でシザー)を町の名としたのです。海辺のカイサリアと区別するためにこういう呼び名になった訳です。当時はローマ皇帝も神と信じられていました。戦前の日本の天皇と同じです。これは勿論本当の神ではありません。

イエス様の一行は、色々な村に行って真実の神を伝えました。戦後の日本に宣教師が来た時に多くの迷信が残っていたそうです。例えば、田んぼのあぜ道の真中に生えている木が農作業に邪魔だったのですが、切ると祟りがあるというので誰も手をつけませんでした。宣教師は祟りを気にしないと言うので、頼んで切ってもらったそうです。イエス様の伝道では、都市部の方が効率は良かったと思いますが、イエス様は、村を選び、少数の人と交わりました。丁度、愛情深い羊飼いが迷った一匹の羊を捜すかのようでした。そこで真実の神の愛を伝えようとしました。

そこで、その旅の途中に、弟子たちに質問しました。人々の噂のことです。答えたのは一人ではありません。次々と答えたのです。そこからわかるのは、人々がイエス様を神からの使者の復活の姿として理解していたことです。当時の人々が復活思想を持っていたことが伝わってきます。イエス様の伝道は、神の愛というよりは、有名な人物の生き返りという形で理解されていたのです。

一応、弟子たちの意見を聞いた後で、イエス様は、彼ら自身の意見を聞きました。「あなた方はどう思うのか」ということです。一般的なうわさや、評判では本当の信念にはなりません。自己自身の信念こそ、その人を根底から動かす力です。あなたはどうですか、というのは、まさに個人の存在の土台を問うたのです。他人の意見というのは、どんなに立派であり賢そうでも自分のものではありません。ですから、聖書もそうですが、それが根本的に自分の意見とならない限り生きる力とはなりにくいものと思われます。

そこで、答えたのはペトロだけでした。他の弟子は、ワイワイガヤガヤ、他人の意見や又聞きを紹介するには熱心でした。しかし、自分はどう思うかと問われて、そのときに答えていません。ペトロは、預言者とは言いませんでした。エリヤとも言いませんでした。そうではなく、イエス様こそイスラエルの長い歴史のなかで期待されていたメシアであり、世の救い主であると告白したのです。ただ、その告白の本当の意味が彼自身にわかったのは、イエス様の十字架と復活の後でした。ですが、確かに、この時に先取りしてペトロは、イエス様が人をサタンの支配から解放する愛のキリストであり、メシアであると告白したのです。イエスがキリストであるという告白はわたしたちの信仰の土台でもあります。土台がしっかりしているかどうかは平常時や外面からはわかりませんが危機の時に強いものです。

それからのイエス様の話は驚くべきことでした。人の子とはメシアのことです。31節以下にあるように、聖書によればメシアは苦しみ受けたのちに復活することになっていました。それは聖書の教え、聖書の預言であって、イエス様が思いついたものではありません。今日の日課であるイザヤ書50章にも書いてあるメシアの苦難です。ところが、ここで弟子のリーダーであったペトロがイエス様の発言を遮って反対しました。マタイ福音書では「主よとんでもないことです」とまで言ったと書いてあります。彼は、実は聖書が伝えるメシア像を信じることができなかったということです。これはマルコ福音書のテーマでもあります。人間は自分の力で信じることができない。信じていると思っている者が実は信じていない。神を信じているのではなく、神についての自分の考えを信じているにすぎない。

イエス様が殺されるのは、一般人にではなく、宗教的指導者によるものでした。神を知っているという自負していた者たちが、この罪を犯したということです。そこを理解すると、復活ということが見えてきます。否定の先に肯定です。それも人間の世界ではなく、神の永遠の世界の肯定があるのです。宗教指導者たち、そしてペトロも、究極のところ、人間的な信仰観に立っていたので、イエス様のような人物を殺すしかなかったのです。わたしたちの信仰観も救い主に結びつかないなら、人間的なものだといえるでしょう。ペトロでさえ、この時はまだ、人間的な信仰観でした。ですから、イエス様はエルサレムの指導者たちの事もサタン(蝮の子ら)と呼んだでしょうし、ペトロさえもサタンと呼んだのです。サタンとは神から人間を引き離す勢力のことです。人もサタンになる。お金もサタンになる。カルトにみられるように信仰もサタンになるのです。以前のある事件では、ある仏教系のカルトでたばこを吸って規律を破ったことで殺人に至ったカルトがありました。皮肉なことにその宗教は「幸せ教室」という会を開いていたのです。まさに人間的発想です。現在、イエス様がわたしたちと共にいたとしたら、そして、わたしたちの中に人間的な信仰観を見たら、サタンよ下がれと言うでしょう。つまり、衣食住は大切だが、これを第一にして神にしてはいけない。まず救い主を第一にしてイエス様に従いなさいということです。神からわたしたちを引き離す者がサタンなのです。その力を破り、真実の神の愛に結びつけるのは救い主イエス様だけです。

ただ、そこで終わりではありません。34節にあるように、イエス様は弟子だけではなく群衆も集めて、彼らに十字架の道を説いたのです。神が恵み深いことは確かですが、それは十字架の道とは無関係ではないのです。安価な恵みではないのです。人間には安価な恵み、ベタベタの神の愛への渇望があります。人間的な信仰態度です。神から離れている本当の罪を知らない段階です。だから、心が自由にされていない段階なのです。罪を信じる事。十字架の赦しを信じる事は表裏一体です。十字架とは捨てられた姿です。負担や重荷だけでなく神に捨てられ運命に見放されることです。イエス様はわたしたちの身代わりとなって神に捨てられ、絶望の世界に落ちてくださったのです。

「伝道者になることは絶望に一番近い人間になることである」とある聖書学者が書いています。わたしたちはすべてが伝道者です。絶望における希望が、本当の聖書の世界です。愛があると思っていたら、それは自己愛にすぎなかった。本当の愛なんてなかった。信じていると思っていたら信じていなかった。でも、サタンよ退けと命じ、わたしたちを愛し、わたしたちを神に近づけてくださる方がいます。これこそが信仰の土台です。わたしではない、あなたです。救い主なるあなたです。これが礼拝です。わたしたちも、現在はまだ十分には知りません。それでいいのです。ペトロも後になって、聖霊によって本当の愛の神を信じたのです。サタンよ引き下がれ。これが恵みの先取りです。

-今週の説教