閑話休題

ドリカムの歌とキリスト教式説教の反省点

東日本大震災のときにも、「何度でも」などの曲をつくり、苦しむものに寄り添う姿勢を見せてきたドリカムが、今度はコロナと先の見えない戦いを続けている医療従事者を励ますプロジェクトを立ち上げた。そのドリカムのメンバーが、歌というエンターテインメントには人を笑わせたり、泣かせたりする要素が必要だと語っていた。本当にその通りだと思う。エンターテインメントというと、お叱りを受けるかもしれないが、現代のキリスト教の説教には、人をして笑わせたり、泣かせたりする要素があるだろうか。これは、自分なりに反省の多い点であるが、キリスト教説教は、感情よりもむしろ理性、極端に言えば、理屈っぽいものがほとんどではないだろうか。人生に迷って教会に来ても、そこで聞く説教の言葉は、偉い学者たちの意見の受け売りや、聖書の語句の細かい解釈であって、傷ついた心を癒す働きはないのではないだろうか。しかし、キリスト教説教がこれまでいつもそうだったとは限らない。その昔、銀座教会の牧師として名説教を聞かせた島村亀鶴先生は、「笑わせて、泣かす」ことを得意とした。今でも、その説教集を読んでみると、神学的には深いものをもちながらも、理屈っぽいところはみせていない。庶民の心に直接訴える力を持っている。庶民にわかること。これはドリカムの音楽も同じだ。では、もともとの説教の出発点となっているイエス・キリストの教説はどうだったのだろうか。これを考慮しながら聖書の記事を見ると、意外なことがわかってくる。ガリラヤの大工さんだったイエス様の語りかけには、カタクルシイ点がない(!)。誰でもわかるように、神への信仰をといている。そして、なんとユーモアさえある。これを信じない人もいるだろう。それは、現代のカタクルシイ説教スタイルに脳が染められているからに違いない。では、新約聖書にあるイエス・キリストの教説をみてみよう。最初は、野の花の例え話がよいかもしれない。これは、有名な山上の垂訓と呼ばれる部分で、いまでもイスラエルのガリラヤ湖北岸にいくと、緑の丘の斜面があって、ここでイエス・キリストが野の花を指さして群衆に説教したという場所が残っている。その箇所はこのように記録されている。「なぜ衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどににも着飾ってはいなかった。」(マタイ福音書6章28節以下)ここでは、野の花を成長させる神の働きを賛美している。おそらく、イエス様は群衆の中のこどもたちの衣服に花を添えたりして美しくみせたことだろう。人々の笑いを誘ったと思えるのは、次の箇所だ。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかといって、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。」(マタイ福音書6章31節以下)異邦人とは、当時のイスラエルと支配していたローマ人たちの事にちがいない。皆さんが、実際に、この山上の垂訓の丘に行ったら分かることなのだが、イエス様の時代には、ガリラヤ湖を見下ろす右手方向には、ティベリアというローマ文化に染まった大都市が見えたはずだ。(ちなみに、イエス様はこの異邦人の都市には一回も行っていない。)ガリラヤの民衆は、そこに住む異邦人たちの豪華な暮らしにあこがれていたり、劣等感を持っていたりしたに違いない。そこのあたりの感情をイエス様はユーモラスにとらえ、笑いに転換している。おそらく、この教説の聴衆であった群衆からは拍手喝さいがあったことだろう。イエス様が、地上の金銀や豪勢な暮らしより、神の与える自然の美しさの方がずっとましだと説教してくれたからだ。そう考えると、イエス様の与えた笑いは他の箇所にも見出す事が出来る。わかりやすいのは借金の話だ。これは、金銭問題で苦しむ貧しい人々には人気のある話だったことだろう。それは、マタイ福音書の18章に書かれている。「仲間を赦さない家来のたとえ」という部分なのだ。ある金持ちが国王から莫大な借金を帳消しにしてもらい、お城から家路についた時に、少額を貸していた人物にあうと、「捕まえて、首を絞め、借金を返せ」(マタイ福音書18章28節)と怒鳴ったというのだ。この事件を知った王様は、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ福音書18章33節)と怒って、金持ちを捕えさせて、牢屋に入れてしまったわけである。これを聞いた群衆は、彼らも高利貸等に苦しめられた経験があるはずだから、思わず留飲を下げ、拍手喝さいをしたとおもわれる。ただ、ここの箇所は、神の前での赦し、という深いテーマを扱っていることも確かだ。また、有名な倉の話もある。ある金持ちが豊作だった年に作物を貯蔵する場所がなくて困った末に、古い倉庫を壊して、大きな倉庫を作り、「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ」(ルカ福音書12章19節)と自画自賛した様子を語った後に、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったい誰のものになるのか」(ルカ福音書12章20節以下)という神の鉄槌の言葉を加え、日ごろから金持ちの強欲に苦しめられていた労働者たちの笑いを誘ったにちがいない。しかし、ここでも、単なる笑いだけでなく、地上ではなく天に宝を積みなさいという深いメッセージが語られている。笑った後で、わが身を振り返り、ジーンとする時を持たせている。おそらく、イエス・キリストほど、笑わせて泣かせる、そして人を生かす説教をした人はいないだろうと思う。これからの世代の伝道者に望むのはこの事だ。それが、苦しむ民衆に寄り添うということではないか。

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