聖霊に満たされた無学なペトロは、旧約聖書に驚くべき解釈を与えることが出来た。
使徒言行録2章14節-32節 文責 中川俊介
使徒たちは聖霊に満たされて外国語で話しました。わたしたちの知ることができるのは、彼らが「神の偉大な業」について語っていたということだけです。しかし、14節を見ますと、そうした漠然とした印象ではなく、ペトロによる説教が載っています。
ペトロ一人が立ったのではなく、11人の弟子たちが共に立って人々に訴え、ペトロが代表して話したのです。ペトロは思いつくままに話したのではなく、群衆の注意を十分にひいてから話し始めています。まず、第一に彼が訴えたことは弁明であり、聖霊降臨は聖霊降臨であって、酒に酔って大騒ぎしているわけではないことです。それを、ペトロは時間的に説明して、まさか朝の9時から酩酊する人はいないと言ったのです。「ユダヤでは、朝食には決して酒はつきませんでした。それに、朝の9時というのは、ユダヤ人にとっては祈りの時でした。」[1] ユダヤ人はセデュールという祈祷書を使ってかなり長い間祈ります。ですから、ここでわかることは、弟子たちが朝の祈りをしていた時に、聖霊が降ったということです。聖霊が教会の土台です。現代の教会に生きるわたしたちの土台はどうでしょうか。
ペトロは、聖霊降臨の出来事を、聖書の預言との関連で述べています。これは決して偶発的なものではなく、神のご計画の中の出来事なのだということです。「こうしてペテロは、聖霊降臨の出来事を、まずもって預言の究極目標と結びつけた。」[2] ここで、特にヨエル書を引用したのはどうしてでしょうか。「ペトロが引用した預言書は世の終わりに関する終末論的なものであった。」[3] ヨエル書は不信仰の罪を神が砕き、聖霊によって赦しを与え、すべてを新たにすることを強調しています。「ヨエルの真意はすべてがあらたにされて、国籍と言語の相違を越えて一つの霊によって、通じ合い、語り合い、解け合う祝福の日、主の日の来臨の待望であった。」[4] つまり、ヨエル書は古い世の終わりと新しい時代の到来を告げていると言っても良いでしょう。それを、まさにペトロが言いたかったのです。
17節からは、引用部分です。ヨエル書の本文では3章以下の部分です。17節では、「その後」とヨエル書にあるのを、ペトロは終末のしるしとして理解し、「終わりの時」として読んでいます。わたしたちの教会では既に黙示録を学びましたが、初代教会にとって、特に迫害の中に置かれた信徒にとって、終わりの日の理解がいかに大切だったかがわかります。ペトロは、ほかの部分でも世の終わりと救い主の関連について述べています。「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。」(第一ペトロ1:20)その点をわたしたちはどのようにとらえているのでしょうか。皆で話してみましょう。
ここで、霊が注がれたしるしとして、神の言葉の伝達と、夢や幻の出現が強調されています。超自然現象ともいえるでしょう。つまり、霊とは人間の霊ではなく、天地創造の際の神の息吹でもあり、創造的な力であるというのです。18節は、身分の低い者にも聖霊の満たしがあることを告げます。おそらく、ユダヤ人の側からみたら、異邦人を意味していたのでしょう。19節では、天と地における兆候を述べています。多少の言葉の違いはあっても、ペトロの引用とヨエル書の原文は基本的に同じことを言っています。日本でも昨年は大地震という地のしるし、今年はスーパームーンや金環日食などの空のしるしがみられています。長い人類の歴史のなかでは、同様なことが繰り返されているとは思いますが、どの時代においても、これを単なる自然現象ととらえるのではなく、神のメッセージとしてとらえることも大切だと思います。ペトロの時代にも、「約7週間前に、エルサレムの住民は、イエスが十字架にかけられた際に太陽が暗くなるのを目撃したのです。」[5] 大洪水の際のノアの話も、同様に、一つの警告と考えてよいのではないでしょうか。
20節にある、「主の日」とは、終末のしるしのことでしょう。多くの宗教が、現世をいかに幸せに生きるかを対象とし、ご利益中心なのに比べると、聖書は実に純粋にこの世の価値を否定し、この世の永続性も否定し、ただ神のみ心のみが永遠であることを告げています。「神の栄光の啓示は、同時にその裁きの啓示でもある。」[6] やはり、聖書は人間の霊が作った書ではないことが実感されるものです。最後に、ペトロは21節で、どんな天変地異があっても、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と福音を告げています。ヨエル書の後半部分にはエルサレムの人々の優位性が述べられているように思えますが、ペトロの説教では、主の名を呼び求めるというだけの条件で、どんな民族のものも、どんな地位の者も、無条件に救われることが宣言されています。それは、イエス様が常々弟子たちに語っていたことでありました。これが、この時点で、まさに弟子たち自身の確信することとなったのです。「しかし、ペトロは、聴衆が本当に自分たちの罪の意識を持つまでは赦しについて語ってはいない。」[7] ペトロ自身が預言し、幻を見たのです。それでなければこの場面はありえないでしょう。ヨエル書の預言が実現したことをペトロは実感しながら多くの人々に、聖書に書かれている罪と救いの赦しを伝えたのです。わたしたちの救いの確信はどうでしょうか。皆で話してみましょう。
引用が終わると、ペトロは再び人々に注意して聞くことを求めます。まさにイエス様が言われた「耳のあるものは聞きなさい」(マタイ13:9)と同じです。ここを見ると、いかにわたしたちが聞いているようで本当は聞いていないのかが分かります。そこで、ペトロはヨエル書の引用のあとに本題に入ります。救い主の宣教です。自分たちの罪の贖いとして十字架にかかり、死んで甦ったイエス・キリストを伝える働きです。そこで、ペトロは敢えてイエス様をナザレ人と呼んでいます。ベツレヘムで生まれたとか、ユダ族であるとかのほうが聴衆には受けがよかったでしょう。ナザレ人というのはエルサレムのユダヤ人からみれば、差別の対象でしかなかったのです。「この名称は反キリスト教的なユダヤ人が侮蔑的な意味で呼んだ名であったが、のちにはクリスチャンの名誉ある名称となった。」[8] たとえば、本当のイスラエル人とされたナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ福音書1:46)と語っています。
それはともかく、22節で、ペトロはこのナザレ出身のイエス様こそ、神が遣わしたかたであると言います。「ここで。イエスが明確に人間存在として描かれていることを心にとめることが重要である。」[9] 直接、救い主だとは言っていません。それだけでなく、ペトロの強調点はイエス様でもないようです。「神」がイエス様を遣わし、「神」がイエス様を通して奇跡を行ったのです。イエス様は大切なのですが、神の救いの手段としての役割を担っています。23節で、ペトロは、イエス様の十字架が「神」のご計画の中にあったことを示します。そして、イエス様は異邦人の手によって殺害されたことを述べます。「人の子は、定められたとおり去っていく。」(ルカ福音書22:22)
しかし、ペトロが本当に強調したいのは、イエス様の復活でしょう。イエス様の復活によって彼らの聖書の読み方が変わったのです。「神がイエスを死から甦らせたことにより、彼が救い主であることが明らかになった。」[10] ペトロにとって、それは単なる蘇生ではなかったのです。その死から命への移行は、闇から光への過程でもあり、救いの道程だからです。何と嬉しいことでしょうか。もはや、恐れるものはなにもありません。
ここからペトロは、救い主に関する聖書の引用に移ります。その方が、聞き手であるユダヤ人に理解しやすいからです。これは詩編16:8以下からの引用です。ダビデの言葉を通して、救い主の立場が描かれています。そこには、神と共にいることと、動揺しないことが告げられています。神のご支配に守られているということでしょう。そして、心と体の喜びの状態が描かれています。これは、ペトロもイエス様ご自身の生き方に感じていたことに違いありません。
27節以下は、復活の証明です。「神」は聖なる御子を死の滅びのなかに捨てておかないというのです。詩編では、いくらか違った言葉になっていて、「慈しみに生きる者に墓穴を見させず」とあります。それは「聖なる者を朽ち果てるままにしておかない」と内容的には、ほぼ同じでしょう。「イエス十字架につけて殺されたのは、彼がキリストではないことの証拠にはならず、かえって彼が聖書に預言されたキリストに外ならぬことの証拠である」[11] ただ、ここで注目に値することは、ペトロの引用で、原本の「慈しみに生きる者」というダビデ自身の告白が、救い主を宣言する「聖なる者」に変わっていることです。ペトロが詩編を引用しながらも、聖霊の満たしによって、新しい解釈を付加している部分だと思えます。命の道はまた同時に喜びの充満でもあります。ですから、わたしたちが命の道を歩ませていただくときに、そこには喜びの充満があることは確かです。
29節で、ペトロは再度、聴衆の注意を引くために呼びかけています。ここでの詩編の引用についてのペトロ自身の説明を加えています。確かに、ダビデは「慈しみに生きる者」であったが、死んで葬られ、墓も存在したわけです。ですから、この詩編の言葉は、ダビデ自身の将来を描いたものではなく、ダビデが自分の子孫から出る者が、神とともに天の王座につくと知っていたというのです。その方こそが「聖なる者」だったのです。これを聞いていたユダヤ人たちはどう感じていたでしょうか。ユダヤ人のなかでも、ファリサイ派の人々は復活を信じていたわけですから、復活の意味について新しい解釈を与えられたことだろうと思います。
さて、ペトロはやっとここで、核心的な部分に入ります。先程、ナザレ人イエスと述べた方は、実際にはダビデが預言していたキリスト(救い主)そのものなのだと宣言したのです。イエス様がキリストであるということは、真意な意味では、聖霊の働きなしには言えないことです。ここにペトロの説教の中心的テーマがあり、それは新約聖書の中心でもあります。これを聞いたユダヤ人は驚いたと思います。自分たちが長く待ち望んでいた救い主が、実は自分たちが異邦人の手を借りて一番むごい処刑をした者のことだったわけですから。ペトロの説教の内容を神からのメッセージと信じる者には痛恨の悔い改めが与えられ、上から目線でしか聞けなかった者の心は頑なにされたことでしょう。キリストが現れるときには、その前に罪人が罪を自覚したり、偽善者が怒りを爆発させたりするのです。「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いてつまずいた」(マタイ福音者15:12)、とある通りです。
32節で、ペトロは自分たちが、この聖書の預言が実現したことを直接体験した証人であると宣言しています。「神は信じない者らを用いて、復活の証人にされたのであります。」[12] これこそまさに人間の能力を否定した証しであり説教なのでしょう。確かに聖書を引用しているのですが、そこに終わっているのではありませんし道徳を教えているのでもありません。見た、聞いた、信じた、という現実の世界、信仰が確信となる世界なのです。キリスト教の出発点となったペトロの記念すべき説教です。それを敷衍すれば、伝道というものは、御言葉に立脚した実証体験だとわかります。架空のものは実のないモミと同じで、風に吹き飛ばされるだけだからです。ここで、ハッキリしているのは、聖霊に満たされたペトロが、人間の思考を完全に離れ、神の救いの実現がいかに現されたかを如実に語っていることです。この言葉に、わたしたちも耳を傾けたいものです。
[1] 尾山令仁、「使徒の働き上」、羊群社、1980、63頁
[2] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、30頁
[3] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、39頁
[4] 「新聖書大辞典」、キリスト新聞社、1988年、1430頁
[5] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、69頁
[6] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、30頁
[7] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、70頁
[8] 「新聖書大辞典」、キリスト新聞社、1988年、1013頁
[9] 前掲、 P.ワラスケイ、「使徒言行録」、41頁
[10] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、72頁
[11] 矢内原忠雄、「聖書講義1」、岩波書店、1977年、586頁
[12] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、37頁