使徒言行録3章1節–10節 文責 中川俊介
いよいよ、使徒たちの宣教の働きが始まりました。それも、彼らがあれこれと計画した結果ではなく、神の時がきたからです。1節にあるように、彼らは日課である午後3時の祈りのために神殿に行きました。これは、当時の習慣では、祭司が第二回目の犠牲をささげる時間でした。その時に一般の民衆は祈りをささげたのです。おそらくこれは当時の伝統的な祈りであったと思います。ただ、そうした祈りが悪いわけではありません。祈りにおいて大切なことは、「自分が退き、神が大きくされる」[1]、ということです。御心が行われますようにという願いは、まさにこれを表しているものです。簡単そうで、自分を退けるほど難しいことはありません。
さて、ここをみると、彼らはまだ日曜日に教会で礼拝するという形態をとっていなかったことがわかります。わたしたちが毎週行っている礼拝の形式も長い歴史の流れの中で形成されてきたものです。ある面では、当時の使徒たちはまだユダヤ教徒であったわけです。ですから、「最初の教会では、毎日、朝、昼、夕と三回、祈祷会を持っておりました。」[2] 彼らの信仰の中心は神殿の礼拝でした。何年も続いたユダヤ戦争によって、紀元70年に神殿が崩壊するまで、神殿は多くのユダヤ人の信仰の支えだったと思います。わたしたちの心の支えは何でしょうか。考えてみましょう。
ここには、ペトロとヨハネという、ヤコブと並ぶ、使徒たちの中でも最も有力な弟子たちのことが書かれています。「ヨハネは信望と力の点で、ペテロのすぐ次に位していた。」[3]聖書は、全員一致主義や多数決主義ではなく、神に導かれた少数者が世界を変えていく方向性を示しています。啓示宗教とはそういうものでしょう。ですから、教会において信仰深い人がほんの数人しかいない場合でもそれ自体に問題はないのです。
その神殿の入口で、二人は足に障害を持った人に出会いました。この人は後遺障害でそうなったのではなく「生まれながら」の障害だったとルカは強調しています。イエス様の癒しの場合もそうでしたが、障害をもって生まれるということは、周囲の人々から、親の罪の罰が子供に現れたのだと考えられるのが普通でした。ですから、おそらくこの人も、障害からくる苦しみだけではなく、神の裁きを受けているという周囲の人々の冷たい視線にも苦しめられていたことでしょう。だた、冷たい人ばかりではなく、親切な人をも神は与えているわけで、この人を支える人たちが彼を神殿の入り口に運んでくれていたのです。彼は、仕事はできませんでしたが、物乞いをすることはできました。幸いなことに、神殿に祈りに来ているような信仰深いユダヤ人にとって、貧しい人に慈善のお金を与えることは、自分の魂の救いを助ける業の一つでした。ですから、この男は、神殿に祈りに来る人々の慈善行為によって暮らしをたてることができたのです。その門の名前は「美しの門」でした。現在でもヤファ・ゲイトと呼ばれる門がありますが、それが過去に同じ位置にあったかどうかは確かではありません。それはそうとしても、ヤファ(地中海に面した港町)に向かう道とは無関係ではないとは思われます。ちなみにエルサレムの北側には、ダマスコ門というのがあって、これはダマスカスに向かう道の出発点です。使徒たちの宿舎がおそらく南のシオンの丘近辺だったとすると、この門は現在のものより、もっと神殿の近くにあった可能性もあります。現在遺構として残っているウイルソンアークの近くだったかもしれません。他の説によれば、ちょうど神殿の反対側である東側だったとも言われています。
それはそれとして、3節にあるように、ペトロとヨハネがまさに神殿境内に入ろうとした際に、この障害の男が慈善を求めました。彼は自分が出会った二人が誰であるかを知っていたわけではありません。
4節には不思議なことが書いてあります。この男の物乞いの叫びに対して、ペトロとヨハネは何も答えず、じっと彼を見つめたのです。何を思い、何を考えながら凝視したのでしょうか。信仰の有無を見極めたという説もありますが、この箇所では「あなたの信仰があなたを救った」とは書いてありません。ただ、神の恵みによるものです。おそらく使徒たちの目は、イエス・キリストの愛で満ちていたことでしょう。それまでの物乞いの男を軽蔑したり、冷たく見下していた目とは違っていたはずです。使徒たちは彼らの師であったイエス様から相手を良く見ることを学んだのでしょう。心の不安定な人は相手の目を見て話すことがなかなかできません。特に、日本では目を見て話すという習慣がないようです。目は、脳の一部でもあり心の動きを微妙に映し出す体の一部であることは確かです。相手を知るには目を見ることです。ペトロとヨハネは、物乞いする人の悲しげで、自分を失ったようになった目を凝視しました。わたしたちの目はどうでしょうか。喜びと希望に満ちているでしょうか。それとも、一日一日を惰性で生きているのでしょうか。生きていても死んでいるのと同じでしょうか。お互いを凝視してみましょう。
使徒たちは、物乞いをじっと見つめただけでなく、彼にも一つの行動をとるように命じました。おそらく、彼を憐れんでお金をくれる人はいても、彼を一人の人間と認めて、行動することを求めた人はそれまで存在しなかったでしょう。「わたしたちを見なさい」、ということは金を求めて地面に顔を擦り付けたり、自己卑下してはいけないということです。まっすぐ見なさいと言うことでもあります。
5節にあるように、男は期待して顔を上げました。それは、金銭に対する期待でした。おそらく、物乞いも大勢いて、自分だけが憐みを享受することは困難だったのでしょう。彼の目は輝いたでしょう。たとえ、物質だったとしても、マッチ売りの少女の一瞬のあかりのように闇夜をてらすものであることは確かです。
ところが、使徒たちの対応は、彼の想像をはるかに超えたものでした。使徒たちは金銭を与えることはできなかったのです。彼らもガリラヤからの貧しい旅人にすぎませんでした。体に障害こそありませんでしたが、財布の中身はおそらく物乞いとあまり変わらなかったでしょう。だから、「金銀はない」と言ったのです。乞食と使徒たちの共通性です。「それはまたこの人に近づく有利な点でもないでしょうか。」[4] しばしば、わたしたちは自分の欠点を卑下しがちですが、その足りない部分こそが、伝道のよい機会なのだと考えると良いでしょう。立派な人が、あるいは裕福な人が、知恵ある人が伝道するのではなく、何もかも不足している人、弱い人が唯一神のみ力と支えによって動き出すことが伝道なのです。皆でこの点を考えてみましょう。
しかし、それがすべてではありませんでした。彼らは、人生で最も豊かなイエス・キリストの福音を持っていたのです。それは財布の中身には比較できないほど尊いものでした。使徒たちも、以前はこの宝に気づいてはいませんでした。しかし、聖霊が降り、救いの信仰が確立するという神の時がくると、彼らはイエス様の業を継承する人々となっていきました。ですから、「自分たちが何によって生きているかを」[5]、示すことができたのです。そして、内在するイエス・キリストの名によって、この男の障害が癒されるように祈願したのです。これは、まさに、「イエスこそ神のメシアである」という信仰告白にほかなりません。これは、イエス様が以前に行っていた癒しの働きそのものでした。「それはペテロの行為ではなく、キリストの御業である。」[6] 薬を使ったり、足をマッサージしたわけではありません。イエス・キリストの尊いみ名によって、癒しを行ったのです。「み名があがめられますように」と主の祈りにもあるように、聖なる名が大きな力を持つという信念はユダヤ人の伝統的な考えでした。モーセの十戒の3番目にも聖なる名に関する禁止事項がでています。イエス様は昇天したにもかかわらず、その働きは自己を退けた弟子たちによって、イエス・キリストの業として継承されたのです。ですから、まさに弟子たちを用いてイエス・キリストが男を癒したのだとも言えるでしょう。「ルカ福音書の読者は、ルカがイエス様の癒しの記事を好意的にとりあげていることを知っている。それは17の癒しの話にまとめられている。」[7] そして、ルカは、やがて彼らもイエス様と同じように迫害を受けるが最終的に勝利することになると示したいのです。迫害や困難なしの伝道はあり得ないことを聖書はわたしたちに証ししています。
7節には癒しの様子が説明されています。右手をとって彼を立ち上がらせたのです。これは、イエス様が命令形の言葉で癒しを行ったのと同じでした。立てない人に立ちなさいと命じたのです。「跛者を歩ませることは、メシヤ預言の一つとして解釈されていたのである。」[8](イザヤ書35:6参照)新しい時代の到来です。
この男は、最初は半信半疑だったのでしょうが、関節がしっかりして、自力で立つことができました。あまりの嬉しさに、彼は躍り上がったのです。それまでの人生で、立ったことがなかった訳ですから、立つという誰でも当然に思っている行動が、彼にとっては天国にいるかのような気持ちにさせたのでしょう。そこで、わたしたちも自分自身に問いかけたいものです。今までにできなかった束縛から解放されて、新しいことができるようになっているでしょうか。救い主の到来を実感しているでしょうか。わたしたちは、喜びをもって立っているでしょうか。もしそうなら、それを伝えましょう。そうでないなら、祈って待ちましょう。
この男の反応は、興味深いものでした。単に立ち上がっただけではなく、8節にあるように、その周辺を歩き回り、たしかに自分が自分の足で歩いていることを確認しました。そして、特に大切なのは彼が神を賛美したことです。この癒しの働きが、偶然や人間の業だったのではなく、純粋に神の愛の御業であることがわかったのです。「彼は肉体がいやされただけでなく、救われたのです。」[9] わたしたちが礼拝で歌う讃美歌も、形式的なものではなく、同じように神の恵みに対する感謝の応答としての意味があります。
彼は、喜びが一段落すると、ペトロとヨハネと一緒に神殿境内に入っていきました。障害者は神殿に入ることは禁じられていましたから、おそらく彼は、初めて神殿にはいったのでしょう。それも嬉しいことです。
さて、周囲の人たちの反応はどうだったでしょうか。勿論、多くの人々が祈りのために神殿に向かっている最中にこの癒しの奇跡が起こったのです。9節にあるように、大勢の人々がこの出来事を目撃しました。最初は、彼らも、この踊りまわっている人が誰であるかを判断できなかったようです。しかし、それがいつも物乞いをしていた生まれつき障害をもっていた男だと気づきました。そのときの驚きは、形容しがたいものでした。イザヤ書35:6の言葉の実現です。こうして、イエス・キリストの福音が大勢の人に対して奇跡の力をもって証されたのです。これは、理論や教理ではなく、以前は無力だった人が現在は力を与えられて神を賛美し、踊り狂っているというような現実によるものなのです。現代でも奇跡を信じない者は多くいます。ただ、その人々は、まだ神の恵みの業を目撃していないだけで、このような光景をみたらきっと畏敬の念に満たされることでしょう。ただ、イエス様ご自身は、奇跡を信仰の上に置くことはせず、見ないで信じる者は幸いだと教えたのです。でも、そのことは奇跡による伝道を否定したものではありません。弟子たちの伝道の第一歩は、イエス・キリストのみ名による癒しであり、聖書の預言の成就でした。「今日、教会でほんとうに必要なのは、イエス・キリストの御名によって人を救うことです。はたしてわたしたちひとりひとりは、このような生き方をしているでしょうか。」[10] 現代の教会も、さまざまな面で病んでいるこの世に対して、イエス・キリストのみ名を通して、癒しの業を行っていく必要があります。
[1] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、48頁
[2] 尾山令仁、「使徒の働き上」、羊群社、1980、105頁
[3] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、44頁
[4] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、50頁
[5] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、107頁
[6] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、44頁
[7] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、49頁
[8] 矢内原忠雄、「聖書講義1」、岩波書店、1977年、604頁
[9] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、109頁
[10] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、110頁