パウロは自分の弱さを知らない人ではありませんでした。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(第二コリント12章9節)、と彼は述べています。また、「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(第二コリント12章10節)というかれの実感をも表明しています。このパウロの手紙の言葉に、自分はどれほど励まされたかわかりません。自分の弱さの一つに、対人恐怖症があります。よくこんな性格で、対人がメインの牧師職をこなせてきたなと思います。それも、聖書によって、弱さに対する別の見方ができるようになったからではないでしょうか。この対人恐怖は、子供の頃に特にひどく、買い物や新しい場所に一人で行くことが嫌いでした。学校でクラスメートの前で発言するのも嫌いでしたし、音楽のテストで皆の前で歌うのが死ぬほど辛く感じられました。その性格は、小学校を卒業して中学生になっても同じでした。さいわいに成績は良かったので、学級委員をしていましたが、上級生になると、学級委員が生徒会長に立候補することになっていました。その頃の中学校は、まさにベビーブームであり、一学級が50人、学年には7クラスあって、中学校全体では千人を越える大人数でした。その前で演説をするのですから、対人恐怖症の弱さをもったわたしにとっては、千人を前にして朝礼台の上に立つことは、まるでギロチン(断頭)台の上に立つことと同じだったのです。勿論、結果は落選でした。今の自分が代わって演説するならば当選していたかもしれません。この傾向は、高校時代も、大学時代も続きました。しかし、学生運動に参加していたころ、大勢のグループが日比谷公会堂で演説する中、部落問題研究会のグループを代表して演説することになりました。生徒会長選挙の時と状況はにていましたが、この時の聴衆は二千人でした。自分でも、何を話したのかは覚えていませんが、なにしろヘルメットをかぶっていの演説でしたので、どうにか勢いで終わらせることができました。自分は弱くても、頭の上に兜のようなヘルメットがあったので助かったのかもしれません。パウロも、他の手紙では、信仰の武具を身につけなさいと教えています。「神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉をとりなさい。」(エフェソの信徒への手紙6章13節以下)大学を6年間かかってやっと卒業し、アメリカの神学校にいってからも、対人恐怖直傾向は続きました。さらに悪いことに、神学校は全寮制でしたから、毎日、朝から夜まで他人と過ごさなければなりません。これが苦痛でした。しかし、在る学期の期末試験のあとに、教務課に呼び出されることになりました。成績が悪かったのです。後で考えてみれば、不可と可を取っただけでしたが(日本の大学では再履修すれば問題ない)次の学期で再度不可をとったら退学処分だと告げられました。ショックでした。それまでの努力が水の泡になる所でした。そこで、わたしは自分の弱さに向き直ったのです。対人を避けてはダメだと思いました。何故なら、アメリカの学生たちは、会話しながら授業の情報交換をしているからです。黙っていたら、とんでもなく難しいクラスを取ってしまい、退学の憂き目にあうことになります。弱さから逃げてはいられないと思いました。これは、ある面の人格改造でした。しかし、背に腹は代えられないということでした。神学校を無事に卒業して帰国しましたが、それからまた数年間日本の神学校で学び、牧師としての一歩を踏み出しました。しかし、ここにも弱さが露呈する訳です。先輩の牧師からは、「中川君は、話より書いたもののほうがいいね」と言われました。つまり、話とは説教です。教会には説教が毎週あります。これは、対人恐怖症の自分にとっては、毎週断頭台にのぼるのに等しい事でした。しかし、会衆にも慣れてくると、いつのまにか辛くはなくなってきました。また、「自分の弱さを誇りましょう」と言えたパウロが、全幅の信頼を救い主イエス・キリストに寄せていたことを理解し、重点を自分から外側の神の助けの御手に移すことができるようになったのです。教会に在任中は、日曜日に開催される高校のクラスの同窓会にも一度も行ったことはありません。ただ、そうした集まりでは、余興や歌を歌ったりすることが必ずあります。自分としてはそれもニガ手でした。しかし、弱さを恥じることのない現在は平気です。現代の社会でも不登校の生徒の数は減少していないと思います。あれも弱さではないでしょうか。自分の知っている人や、優しい人だけならいいのですが、慣れない環境や敵視されることに耐え慣れないのだと想像します。勿論、相手も悪いのですが、結局は自分が弱いのだと思います。ですから、自分の弱さとむきあって、そんな自分でさえも神は絶対愛で支えて下さることを理解できるといいと思います。これを読んでくださっている方々に、自分の弱さに悩んでいる方がいらっしゃったら、遠慮されずにお問い合わせください。なにか良い方法が見つかるかもしれません。