結婚について考える説教
「縁結び」 マルコ10:1-16
離婚に関してはバツイチという表現があります。しかし本当にそうなのでしょうか。離婚した人間がバツで、まだ結婚している人がマルなのでしょうか。聖書には婚姻関係のことが色々書いてあります。一つは、イサクと奥さんのリベカとの出会いです。お父さんのアブラハムは召使に遠い故郷のハランの町まで行って息子イサクの嫁を探してくるように言いました。召使は自分が水を求めた時に、10頭の駱駝にも飲ませてくれる心優しい女性を花嫁に選びたいと神に祈りました。それをしてくれたのがリベカでした。お見合いでしたが、イサクはリベカを愛したと書かれています。逆の例が、ダビデとミルカです。ミルカはダビデが仕えたサウル王の娘でした。神の箱が敵の手から奪還されてエルサレムに戻ってきたとき、「ミルカは主の前に裸で踊るダビデを見て心の内にさげすんだ。」(サムエル記下6:16)と書いてあります。それに対してダビデは、「お前の父や王族のだれにでもなく、わたしを選んでイスラエルの指導者としてくださった神の前で喜び踊って何が悪いのだ。わたしはもっといやしめられる者となろう。」と答えたと書かれています。
今日の日課のヘブライ人の手紙2:8以下「神はすべてのものを、その足の下に従わせた」は、詩編8:7からの引用です。この詩編を書いたダビデは、神の天地創造の事実を忘れませんでした。ダビデはミルカからの批判の件でも、王女として育った彼女のプライドには影響されず、自分を選んだのは神であるし、神の御心ならばもっと卑しめられてもよいと述べたのです。ダビデの思いはやがて、イエス・キリストの選びと十字架の屈辱の預言となりました。また、天地創造の話が出ている創世記の日課を見ますと、人間を神が創造した時に、「人が一人でいるのは良くない」として、最初の人であるアダムとイブの縁を結んだとあります。
さて、イエス様とイエス様に反対する人々の間には色々な議論がありました。ユダヤ教の教えであるタルムードには、この離縁についての問題がおおきく取り上げられ、ユダヤ人の間でも、学者の間で議論が戦わされ、どんな条件があれば離縁が認められるかが大関心事になっていました。当時は女性の立場が大変に弱く、奥さんがパンを焦がしただけで離婚することができるという議論もありました。一方で、イエス様の教えは神の愛中心の考え方でした。突き詰めて言えば、ダビデのように、人間の権威ではなく、天地創造の神の権威を知り、そこに信頼すべきだということです。
イエス様の教えに反対する人々は、イエス様を試すためにやって来たのですが、ここで使われている、試みるという言葉は原語ではペリラゾーであって、興味深いことに、サタンが誘惑の山でイエス様を試みるときにも用いた用語です。サタンは愛を忘れさせ、欠点を捜させる役割をもっています。怖いのは、サタンはサタンを再生産することです。批判する者を批判するときに自分もサタンになってしまいます。ですから、イエス様も十字架にかけられた時に、自分を迫害する人々を批判しませんでした。使徒言行録を見ると、ステファノも処刑されるときに、「主よこの罪をこの罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7:60)と叫んで息をひきとっています。
さて、批判的だったファリサイ派の人たちのサタンの試みにたいして、イエス様はそうした策略には応じないで、彼らに問い返したのです。サタンにはとても良い方法です。パウロも、人を赦すことが大切といいます。何故なら人を批判し、自分を批判して、ついには「サタンに付け込まれ」(第二コリント2:11)からだと述べています。聖書は、わたしたちも、人生でサタンに対処する方法を学ぶ必要を説いています。
さて、イエス様の問い返しの第一は、「モーセは何を述べているのか」でした。それは申命記24:1以下に関連することです。モーセは離婚を認めていましたが、それは自己中心的な離婚を認めていたわけではありません。イエス様は人間の弱さを考慮したモーセの教えを否定しませんでした。しかし同時に、イエス様はモーセの教えよりもっと古い創世記を引用して、「神が結んだものを人が離してはいけない」教えました。これは聖書を聖書の別の箇所で解釈する方法で、ルターなどもこの方法を用いています。神の御心を求める方法なのです。イエス様は、どんな問題があったら離縁すべきだろうかという、マルやバツをつけるサタンの批判的チェックから大転換させて、「人が一人でいるのは良くない」という結婚の意義に関する、神の天地創造の目的に導いたのです。
パウロも原則的には離婚を禁じていますが「平和な生活を送るように神はあなた方を召された」として、離婚の場合も認めています。それは苦しむ者、また状況によっては離婚せざるを得ない罪人を見捨てることのない神の愛のしるしです。相手の性格や欠点に左右されない愛です。イエス様は、離婚自体が一番悪いと言っているのではありません。イエス様はさらに厳しい結婚の規則を押しつけたのでもありません。現代でもイタリヤ、アイルランド、フィリピンなどのカトリック国では離婚は認められていません。これは一つの律法主義だと言えるでしょう。しかし、パウロも第一コリント7:15で神を信じていない者については、「結婚に縛られていません」と明言しています。結婚しなくても悪いわけではありません。神を見ないで、人間や、環境や相手ばかり見ていてはいけない、というのです。
わたしたちは、結婚に限らず、すべての人間関係で、あるいは自己理解で、主イエス・キリストの十字架という、愛の犠牲をまだまだ十分には理解していません。相手の性格の欠点や自分の欠点に心が左右されているときには、サタンの批判のとりこになりやすいものです。そうならないために、不完全な者、傷つき悩む者、弱い者、罪ある者とイエス様はいつも一緒にいてくださるという、神の縁を知りたいのです。イエス様はむしろ、神の結んだ結婚の縁を教えるホセア書のように、「わたしは背く彼らを癒し、喜んで彼らを愛する」(ホセア14:5)と言ってくださる方です。イエス様は人間の結婚の縁に限らず、本当の意味ではまだ神の縁と神の愛を十分に知らないわたしたちが、天地創造の神の縁を知ることができるように、十字架にかけられ、神の無条件の愛をあらわしてくださったのです。離婚することだけが罪なのではなく、天地創造の神の御心を忘れることが罪の原因なのだと思います。ただ、そうした罪は誰にでもあり、むしろ罪で苦しみ者、傷つき悩む者、弱い者と共にイエス様はいつも一緒にいてくださります。神の縁を結んでくださるのです。ですから、神が人を創造した時に、「人が一人でいるのは良くない」とおっしゃったことは、神がキリストにおいて、わたしたちと新しい縁を結んでくださったことで完成したのです。パウロは言いました。「どんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいという言葉に要約されます。」(ローマ13:9)また、この世の何ものも「主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)結婚していても、離婚していても、結婚しなくても、これはまさにそれらを越えた、天地創造の神の縁結びなのです。それを今日わたしたちもいただいているのです。