用事があって小見川から成田空港の近辺まで車を運転しました。すると、東峰や駒井野、木の根などの地名がカーナビに映りました。そういえば、これらの名前は、学生時代に参加した三里塚闘争の拠点でした。団結小屋というものがあったと思います。それが今では、東峰にはクロネコヤマトの巨大な配送センターができていました。地上で機動隊と学生や農民の混成部隊が激突した場所は、滑走路になり、その下を道路用のトンネルが貫通していました。わたし自身も東京から京成線に乗って成田まで行き、団結小屋にこもって戦いの準備をしたこともありました。三里塚公園で空港反対同盟の戸村一作氏の演説を聞き、感激してシュプレヒコールをあげたのも、今となっては50年以上まえの思い出となりました。まさに、「夏草やつわものどもが夢の跡」です。あの頃の青年たちは、高齢者となり、あのころの壮年たちは、生きていれば90歳代でしょう。しかし、大半は亡くなっているでしょう。これも「空の空なるかな」(コヘレトの言葉)なのです。「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。」(コヘレトの言葉1章3節以下)あのころ、人生をかけて必死で戦った意味は何だったのでしょうか。火炎瓶等で酷い火傷を受けて苦しんだ機動隊の青年もいたことでしょう。学生生活を捨てて現地の女性と結婚し、農民になった青年もいました。わたしのように、無宗教のマルクス・レーニン主義者から宗教家になった者もいます。おそらく、自分たちが最も敵意を抱いた資本家になった者もいた事でしょう。しかし、そうした記憶も、一つ一つ灯が消えるかのように忘却の彼方に沈んでいきます。「日は昇り、日は沈み」誰もそれを思い返そうとはしないのです。それに、空港建設反対の理由の一つだった軍事利用は実現していません。現在はコロナ禍で人影もまばらですが、成田空港は一般人への交通の便を提供している平和的存在にすぎません。最初に闘争が始まってから55年となります。あのころは、「総括」という一種の流行語がありました。でも、55年たった今、誰が納得のいく総括を与えてくれるのでしょうか。聖書を読むと、どんな戦いでも、どんな大事業でも、人の手の業は空しいことが書かれています。それを既に知っていたのはイエス・キリストでした。人々が人の手の業であるエルサレムの大神殿を賞賛していた時に、彼は「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残されることのない日が来る」(ルカ福音書21章6節)と教えたのです。そして、それは本当にその通りになりました。わたしがエルサレムに住んでいた時に見た旧神殿の地下に埋まっている基石は一つが400トンもある巨大なものでした。これが所狭しと積み上げられていたのですから、人々が畏敬の念にとらわえたのも無理ないことです。しかし、やはり、人の手によるものは崩れ去ります。学生の頃に、富士山の裾野にあった創価学会の大石寺敷地内の大神殿を見学したことがありました。巨大な建物の正面に林立するギリシア風の白亜の柱は、直径が5メートルはあろうかと思われる巨大なものでした。しかし、学会と大石寺との争いのために、この大神殿は取り壊されてしまいました。これも「空の空なるかな」(コヘレトの言葉)なのです。学生運動のこともなおさらですが、この世の事に想像以上に夢中になる事は、無駄だと悟った方が良いのではないでしょうか。三里塚闘争から55年経た今、わたしが持つことのできる総括はこれです。「この世の事に、必要以上に囚われたり、悩んだりしないこと。」良きもよし、悪きもよし、神の御心は時にかなって麗しい。