田中正人著「哲学用語図鑑」、プレジデント社、2015年
キリスト教と哲学とは長く深い関係があります。そのことの是非は別として、真理を伝えようとするには、思考と言う媒体を用いる必要があるのでしょう。わたし自身は哲学は難解なものだと思っていました。しかし、アメリカの神学校在学中に哲学の授業を受けたところ、非常に理解しやすいものだったことに、驚きを覚えました。理由はこれです。日本の哲学用語にはわけのわからない造語が多いからです。哲学がわからないのではなく、哲学を語る日本語がわからないのです。その点で、英語は違いました。哲学用語と日常の英語には壁はほとんどありませんでした。なにしろ、英語の語彙にはラテン語やギリシア語語源の言葉も豊富に含まれているので、プラトンやソクラテスが語った哲学も理解しやすいのです。そうした問題点を考慮に入れると、この「哲学用語図鑑」はとても便利なものです。漫画のイラストまでついているので、楽しんで読む(見る)ことさえできます。ただ、最近の用語である「脱構築」などにも、まだまだ、古い造語体質が残っているなと感じました。デリダという哲学者は、二項対立の思考を廃止するために、「ディコンストラクション」を提唱したのです。これは英語圏の人々には分かりやすい概念です。つまり、組み立てることの反意語ですから、分解と同意語になるでしょう。解体と言ってもよいでしょう。それなら、一般の日本人でも、日用語として使っていますから、理解できると思います。しかし、ある東大名誉教授が訳したこの「脱構築」は象牙の塔の中だけで通じる隠語のようにしか思えません。日本の文化も、こうした特殊性を捨てたほうがいいです。普通の人が普通に理解できる学問が提供されるように願うばかりです。日本文化には、前に述べた「忖度」のことばかりではなく、未知であることをもって貴しとする「御本尊文化」が残っています。わたしが牧師になりたての頃の初任地であった、大分県は、福沢諭吉の故郷でしたが、地元で彼は偶像破壊者として知られていました。彼は神社や寺の「御本尊」と呼ばれるものを暴いて、単なる石ころなどに過ぎないことを発見したのです。それが彼の学問のはじめであり、この客観性が「学問のすすめ」へと発展したのでしょう。将来の日本にも、福沢諭吉以上の客観的な構造改革者が登場することを願っています。