久しぶりにシンディー・ローパーの「トゥルーカラーズ」(true colors)という曲を聴きました。シンディー・ローパーは若いころに日本食 のレストランで働いたことがあったそうで、普通の外人以上に日本語を知っています。30年ほど前に来日し、横浜でコンサートをしたこともありました。そんな彼女のヒット曲の一つが「トゥルーカラーズ」です。この曲名がトゥルーカラーではないことは、大切な事です。カラーならば色ですが、カラーズと複数形になると、本質とか性格をあらわします。その曲では、相手のトゥルーカラーズがとっても好きだから、それを隠さないで表に出してね、と歌っています。日本語でも、色というのは顔色であるほかに、色に染まるという表現で周囲の雰囲気にのまれることもあらわします。仏教でも、人間にはそれぞれの色があって、それはそれぞれの色でよいのだと教えます。まさに、十人十色なのです。これと反対の考えが、いじめの心理の根本にある「こうでなければならない」という、聖書でいう律法的思考です。イエス・キリストも、律法的思考に反対したので殺害されています。聖書を読めば分かりますが、創造主である神は、絶対愛をもって人間を十人十色に創造しているはずです。ところが、この世の社会生活で罪多い人間からのいじめを受けると、「自分はこれでいいのだろうか」という疑問が生じ、やがて「他人に好かれない自分には生きている価値はない」という絶望的な思考に落ちこんでしまうのです。でも本当にそうでしょうか。皆が、学校の制服のように十人一色であるべきなのでしょうか。イエス様の時代の律法学者たちはそう考えました。現代でもそう考える人は少なくありません。かつて、神学者ラインホールド・二ーバーなどが提唱した、集団としての人間に中に生じる悪の傾向がそこにあります。それは、集団の意思を優先し、その意思に従わない個人を犠牲にします。集団には、常に構成員を均一化・同一化しようとする傾向があるのです。いじめなどでも、構成員と違った行動をとる者がターゲットになってしまします。こうした人間の持つ罪の問題が解決しない限り、いじめは存続するでしょう。わたし自身も、教会で「牧師いじめ」に遭遇したこともあります。この点では、教会も一般社会も同じです。人間の根底にはそのような罪が存在するのですから、神の絶対愛によって新生しない限り、この現象は取り除くことができません。そこで、いじめに対する一つの対策として考えられることがあります。それは、自分の「トゥルーカラーズ」を神様からのプレゼントとして感謝して受け止めることです。100人の人が100人ともわたしたちのカラーズを否定したとしても、それを与えて下さったのは周囲の無知な人間ではなく、創造主そのものなのです。ですから、創造主の絶対愛を信じることと「トゥルーカラーズ」を大切にすることは、同一なのです。この考えをしっかり身につければ、いじめ対策の一つになるでしょう。