今週の説教

価値観のパラダイムシフトで幸福になりたい時に読む説教

2021/10/23

「闇を朝に変え」       マルコ10:17-31

今回は珍しくアモス書という個所が旧約の日課になっています。預言者アモスが活動したのは紀元前8世紀だと言われています。アモスの名前の意味は「重荷を負う者」、そしてその特徴は、ヤハウェの神の絶対性を説いたと考えられています。それを頭に入れておいて、日課を見ると、典型的なのは5章8節でしょう。「闇を朝に変える主なる神、昼を暗い夜にする主なる神、そして、その御名は主」と書いてあります。宇宙の万物を支配する神のことです。神からの視点からみると人間の働きは宇宙よりも小さく、震災などで感じるように自然よりもはるかに弱いものです。時には、空を仰いで人間の小ささ、神の偉大さに思いをはせることも大切ではないでしょうか。

ヘブライ書にも同様な表現がでています。3章4節です。「万物を造られたのは神なのです」、とあります。そして、12節には、信仰のない考えを抱いて、生ける神から離れてしまわないように注意しなさいと書いてあります。困難や試練にあっても、神という存在を覚えることが大切です。

さて、福音書の日課を見てみましょう。マルコ10章です。これは、金持ちの青年とイエス様の出会いの箇所です。そこには、持つものと持たない者との対比もあります。お金だけではありません。健康を持つもの持たない者、友人を持つもの持たない者、力を持つものもたない者、その例は限りなくあります。そして、わたしたちは所有不足を覚えて嘆くこともあるのです。イエス様は、そういう所有の世界に思いもかけない方法で新しい考えをもたらします。イエス様は所有に心を奪われているものに対して、告発や、非難をすることはありません。むしろ、愛をもって接したといえるでしょう。

今日の本文の次の箇所に書いてあるように、イエス様はエルサレムに向かい、十字架への道を進んでいく途中でした。すべてを捨てる覚悟ができていた時でした。こうした時に、ある金持ちの青年がイエス様に導きを願ったのです。彼の願いは永遠の命を得ることでした。マタイ福音書にはこの男が若い人だったと書かれています。ルカ福音書には、この男が議員であったと書いてあります。そういう詳細はともかくとして、彼がそうとうな実力者であったことは確かだと思います。財産はある、若くて力はある、地位もある、そして実直な人でしたから崇高な気品すらあったのではないでしょうか。世俗的な視点では申し分のない人だったのです。一方、イエス様の周りには、苦しむ人々、病に悩む人たち、罪人として社会の枠からはみ出た人たちが大勢集まっていましたが、中にはこのように裕福な人や宗教家もいたわけです。そして、この男はイエス様を自分の先生と感じ、自分の人生を指導してほしいと願いました。あわよくば、他の弟子たちと同じようにイエス様に従いたかったのでしょう。彼は物質的なものには満たされていました。しかし、魂に空白を覚えていたのだと思います。あるいは、この時代よりももっと古いエジプト文化の中にもみられるような来世への願いがあったのかもしれません。しかし、ここでは、彼が弟子となったのではなく、弟子となることをあきらめた例として、彼のことをマルコ福音書はあげています。イエス様の伝道がいつも順調だったのではなく、回心に導かれない場合もあったのです。また。それは、暗に弟子になるためにはどのような障害があるのかを示しているようです。それは何でしょうか。この場合は財産であり、所有ということです。

むかし、カール・マルクスというユダヤ人が資本論という本を書きました。これは一つの価値論です。ある人が書いています。「金や銀というこれらの物は、地中から出てきたままで、同時に、いっさいの人間的労働の直接的化身なのである。ここから貨幣の魔術が生じる…というわけです。これが貨幣物神のメカニズムです」わかりやすく言えば、金銀に価値があるのは、それを生産することに対しての労働力の大きさがあるからなのです。価値とは労働力の結晶です。そして、財産とは、それを具体的にしたものだということです。これは人間労働力の結晶ですから、人間の世界にしか通じません。例えば、ダイやモンドは生産するのにものすごい労働力を必要とします。第一に、通常は地中深くにあるその鉱脈を発見するのが大変です。また、たとえ鉱山を掘り当てても何トンもの石からほんの少しのダイヤモンドしかとれません。鉱石からの回収率は2000万分の一ともいわれています。つまり1グラムを生産するのに2000万グラムの鉱石を砕かなくてはならない。2000万グラムとは、2万キロであり、20トンです。鉱山の深さは1000メートル前後まで及ぶそうです。大きな鉱山では一日に1万3千トンもの鉱石を砕いているそうです。それは、ものすごい労働力を要求しますから値段が高いのです。でもこれは人間労働力です。人間にだけ価値があるのです。人間だけです。例えば、大きなダイヤと、おいしそうな秋刀魚を並べます。猫は必ず秋刀魚に飛びつきます。肉とダイヤではどうでしょうか。犬は肉を選びます。人間だけがその価値を知っているからダイヤを選ぶのです。実はこの財産に対する考え、あるいはそれ以外の、わたしたちの思考形態を束縛する人間的な価値観が弟子になるために障害となったのです。

この福音書の金持ちは、あたかも財産のように「永遠の命を受け継ぐ」という発想を持っていました。そう書いてあります。興味深いことです。親から子へ資産が「受け継がれ」るように、人間的価値はわたすことができます。この「受け継ぐ」動作を行うのも人間だけであって通常、猫は秋刀魚を受け継がないし、犬は肉を受け継ぎません。そして、「受け継ぐ」とういう動詞には、継承者が満たさなければならない様々な条件や義務が含まれています。ですから、この金持ちの男は、永遠の命を受け継ぐためには「何をする必要があるか、何が義務なのか」を問うています。スポーツも今はお金の為です。オリンピックもそうなってしまいました。スポーツ選手で年俸が何十億円という人もいます。条件を満たしているからです。例えばゴルフも小さなボールを打って遠くの穴に入れるという条件(歩いてもっていってはいけない;笑)が満たされれば、プロであり、価値を受け継ぐのです。イエス様の前に立った金持ちはこのような人間条件をよく知っていました。

どのように受け継ぐか、という問いかけにイエス様は直接には答えません。彼が「善い先生」と呼びかけたのに対して、善い先生なんていないよ、ただ、神だけが善いのだと語りました。先に述べたように、人間の価値や、人間の評価ではない世界があることをイエス様は知っていました。その説明の後に、イエス様は財産処分が必要なことを彼に教えます。ただし、そこが中心ではありません。わたしたちはどうしても所有すること所有しないことに心を奪われがちです。そうではないのです。「天に宝を積む」ことが中心です。これは、神だけが善であるという教えと一貫しています。そして弟子となって従いなさいでした。

弟子であること、あるいは信徒であることには、人間的価値観の処分、そして神の価値への転換、動物が労働生産価値には目もくれないように、肉だとか、秋刀魚だとか、職業や、評判やプライド、家族や友人、健康やダイエット、それはある程度大切かも知れないが、本当は永遠の価値への開眼が一番必要だと教えたのです。

そして後半では、金持ちの話から一般論に移ります。財産の価値観に縛られながら神の国に入るのはラクダが針の穴を通るようなものだというのです。これは、金持ちだけでなく、誰にもあてはまることです。つまり、人間的な価値観を捨てずに、神の永遠の命は得難いし、救われ難いのです。では、いったい誰が救われるだろうか、という疑問がわきます。27節で、再びイエス様は人々の視野を神に向け、人間にはできないが神にはできる、そう教えました。まとめると、神だけが善いのだ、神のおられる天に宝を積むことが大切だ、人間にはできなくても神にはできる。これを確信することが既に永遠の命なのです。死んでから云々のことではありません。宇宙万物を支配する神のこと。預言者アモスが語った、闇を朝に変える主なる神、昼を暗い夜にする主なる神、愛なる神を信じることが福音であり永遠の命なのです。イエス様はこの福音の宣教者でした。弟子たちも、イエス様に従い、人間価値ではなく、闇を朝に変える方を宣べ伝えることができるようになったのです。わたしたちも弟子の弟子ですから、闇を朝に変え、悲しみを喜びに変える方を伝えることができます。勿論、人間にはできない。しかし、神にはできるのです。

神によって闇は必ず終わり、光が与えられるのです。悲しみの闇、苦しみの闇、憎しみと疑いと敵意の闇、そして十字架に最大限象徴される人間の闇は復活の光に導かれるのです。ですから、ヘブライ書にあるように、「人間的価値観に惑わされ、信仰のない考えを抱いて、生ける神から離れてしまわないように」、注意しましょう。時には、使徒信条の交読分の一部に、「神は生活に必要なすべてを豊かに与えると共に、すべての悪から守り防がれることをわたしは信じます」とあるように、創造の世界、野の花を見て、空の鳥を見て、人間の小ささ、神の偉大さに思いをはせることも大切ではないでしょうか。

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