閑話休題

京王線刃物男と道徳の崩壊

また、悲惨な事件が起こりました。閉ざされた空間である電車内の殺傷事件です。犯人は、自分では死ぬ勇気がないので、多数の人を殺害して死刑になりたかったという動機を持っていました。残念なことです。おそらく、彼のように自殺願望を持っている人は、現在の日本には相当数いることでしょう。そして、実際に自殺する人もすくなくありません。ただ、自分が死ぬだけではなく、罪のない他者を巻き添えにする行為の中に、社会全体に対する憎悪のようなものが感じられます。自分は不幸のどん底にある。しかし、電車に乗って普通の暮らしをしている人々が羨ましい。妬ましい。さらに言えば、殺したいほど憎らしい。そこに潜んでいるのは限りない劣等感です。困難な状況を自分では乗り越えられない無力感です。ですから、勿論、自殺することもできません。他殺によって、一時的な快感を得て、あとは極刑を待つだけです。そこにもみられるのは、底知れぬ受動性です。確かに、彼は犯罪者です。しかし、彼のような人をこの社会は数多く生み出しています。そこには色々と原因はあるでしょう。その一つとして、わたしが考えるのは宗教の衰退と、青少年期の過保護です。わたしの子供の頃には、大人たちから、命の大切さを教えられました。仏教の教えがまだ残っていて、理由のない殺生は禁じられていました。虫一匹でも命を宿しているから大切にすべきだと教えられました。人間などは、なおさらです。さらに考えると、理由のない凶悪犯罪が後を絶たない原因の一つに、青少年期の過保護があると思います。小さいころに、手を切ったり、爪を剥がしたり、足にくぎを刺したりして、痛みを知ります。自分が痛いことは、他者も痛いだろうと推測できます。しかし、この自然な学びの過程が、現代社会では過度の保護によって取り除かれているのです。ケガをしないこと、病気をしないこと、それ自体は悪い事ではありません。しかし、痛みを経験していない人間は、自分の自殺願望のために、他者に多大な痛みを与えても、それが実感として受け取ることができません。京王線刃物男は、殺人者ジョーカーの服装をしていたそうです。まさに、ゲームやヴァーチャルリアリティーの世界に浸かっている姿です。そこには現実性はなく、道徳も痛みもありません。仮想通貨や、仮想現実を作り出している社会の根底にあるのは金銭的利益であり、道徳ではありません。おそらく、京王線刃物男もこの資本主義社会で勝ち組であったら、このような事件を起こさなかったでしょう。道徳が崩壊した社会の規範は、金銭のみだからです。「武士は食わねど高楊枝」昔の武士の心には、金銭に左右されない道徳がありました。聖書を見ると、「だれでも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富に使えることはできない」(マタイ福音書6章24節)と書かれています。ここで言われていることは、富や金銭が人の心を支配する偶像となり、その願望が叶わない時に、サタンの支配を受けてしまうという事です。何故なら、富とはギリシア語でマモンであり、サタンと同義語だからです。京王線刃物男を生み出したのは、マモンに支配され、道徳を失ったわたしたちの社会そのものです。そうした社会に、本当の希望や道徳を伝える教会や寺院が、まだまだ少ないのはとても残念なことです。

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