印西インターネット教会

死者を覚える日の説教(死から命へ)

「死から命に移される喜び」  ヨハネ15:1-17

11月7日は教会の暦では全聖徒主日です。亡くなった方々を覚える主日です。おそらく、普通の人は一生にそれほど多くの人の死に遭遇しないでしょう。わたしの場合には京都に住んでいた時に、葬儀社で働きましたので、毎日2件か3件の葬儀を準備していました。そういう場合は特殊ですが、わたしたち一人一人には親しい方々とのお別れの思い出があるでしょう。葬儀は悲しいものです。その中でも、特に若い方の葬儀は、最後の別れがつらいものです。初任地であった大分県の別府教会で働いていた時に、18歳の女の子の葬儀をしたことがあります。その子は元気で暮らしていたのですが、癲癇の持病があって、ふろ場で倒れて溺死してしまったのです。こうした突然の死は特に大きな心理的な負担が家族にかかります。

旧約聖書のエゼキエル書には「枯れた骨の復活」という題がついた部分があります。旧約聖書の時代の人々には、戦争があり、疫病や、飢えで死ぬ人が常にあって、常に死と隣り合わせだったのです。わたしたちの社会では、そうした体験の一部をコロナ禍で感じ取りました。500年前のルターの時代も同じでした。ルターの町で疫病が流行し、住民の半数以上が死んでしまった時にも、ルターは知人の助言にも従わず、その町に止まり、病人を看病し、死者を葬りました。エゼキエルの場合には、谷に降ろされるとそこは骨でいっぱいだったとあります。エゼキエルの見た谷は戦場の跡だったかもしれません。それについて神がエゼキエルに聞きました。「骨は生きかえることが出来るか。」エゼキエルの答えは、「主のみが御存知である」ということでした。わたしたちは、自分で考え、自分で結論を出してしまいますが、主が知っていてくださるから何の心配も持たない、それが信仰者の考え方ではないでしょうか。

そのあと、エゼキエルは、主の命令を骨に語る器となりました。命の使者が、死の世界に、命の宣言を行ったのです。これは、罪の赦しの宣言に似ています。もともと、教会に神父さんや牧師が置かれたのは、罪の赦しの宣言を行う為でした。説教などが重視されるようになったのは、宗教改革以後です。それには、利点も弊害もあります。み言葉を学ぶのは悪いことではないですが、いつのまにか、会衆を説教の批評家にしてしまいました。一方昔の形式は、罪の赦しの宣言を司祭がキリストに代わって宣言するのです。そこには、会衆が批評を加える余地はありません。罪の赦しにたいして、批評することはできません。エゼキエルの宣言のように、死の世界である罪が除かれ、命が与えられることは聖書の教えの中心事項なのです。日本では、それを知らない人がなんと多いことでしょう。教会とは、キリストに代わって、あるいは現存のキリストの体として罪の赦しを宣言する場なのです。それによって、カトリック教会は過去2千年間、変わることのない立場を維持してきました。盤石の信仰ともいえるでしょう。人生の最後を暗く、望みなきものにする罪と死を、主イエス・キリストが滅ぼされた、それを教会は宣言してきているのです。

八王子教会で牧会していた時に、9月1日にある老婦人の葬儀がありました。最後まで神を信じて天国に召された故人の最後は静かなものでした。8月30日に亡くなりましたが、8月の初旬に病院を訪問した時には、手をあわせ「先生お別れです」と言われました。そして、その頃に家族の方に、自分の墓碑銘に八王子ルーテル教会と刻銘するように頼んでいます。また。ご自分の人生を振り返るお別れの言葉も既に書いておられました。主に従う者の、教会を大切にする者の静かな証しがそこにありました。毎月毎月の家庭訪問の際にも聖書の学びと聖餐式も、喜んで受けられ、信仰の成長も見られました。み言葉を喜んで聞いておられ、教会の印刷物は詳しく読んでおられました。聖書の個所にはその期日を記入されていました。家族の方もその聖書を。火葬の際に棺に入れました。それは、故人の信仰の証しだったかもしれません。

さて、ローマ書ではどのように書かれているでしょうか。わたしたちは、洗礼によってキリストと共に死に、キリストと共に一体となってその復活の姿にもあやかるというのです。中国で宣教したある日本の牧師が、「キリストと自分は十字架の釘でつながっている」と語ったそうです。痛みによってキリストと結ばれているのです。これもエゼキエル書と同じく、死から命への移行です。新しい命に生きることです。これが何度も繰り返されています。ですからこれも、司祭による罪の赦しの宣言、死から命への移行と同じです。

この点をイエス様はまさにブドウの枝で強調したのでしょう。神の枝に結ばれていることは、痛みであるが、命のしるしです。実のならない枝は、神が刈りこんでくださるのです。実際にブドウの枝は、二芽ほど残して後は刈り込みます。そのことを、イエス様は15:3で「あなた方は既に清くなっている」と語っています。人間の行いという条件ではなく、イエス様の言葉の宣言、それを信仰心で受け入れることによって清められたのです。清めるとは、剪定する、無駄な枝を切るという意味でもあります。これも司祭による赦しの宣言と同じです。つまり、ブドウの木であるイエス様につながっているという事は、教会に結ばれているという事です。この記事を読んでいる方々も、パウロの手紙を読んだ遠隔地の教会の人々と同じく、教会との結びつきを神から与えられていると言えるでしょう。だから、教会を離れてはいけないわけです。イスカリオテのユダはイエス様に失望して、離れました。ある聖書学者が言っていますが、「表向きはキリストの弟子でも、その本心が自分の欲に結ばれている時、霊の養分を受けられず、実を結ばない」のだそうです。現在でも、罪人を愛するキリストの教会に失望して教会を離れるものがいます。それは、ユダと同じように、自分の理想や、教会にこうであってほしいという自分の欲を、イエス様の教え以上に大切にしてしまうからです。

11節以下には、愛の枝に結ばれている結果が書いてあります。キリストの愛とはラブラブの感情ではなく赦しです。そして教会に結ばれていることが信仰です。教会に結ばれ、正しい信仰に歩ませていただくと、イエス様の贖いを受けた喜びに満たされてきます。死から命に移された復活の喜びです。十字架から復活に移った喜びです。また、このイエス様の愛、愛の神の枝に結ばれている愛、これには痛みが伴いますが、それを逃げずに互いに愛し合いなさいと命じられているのです。

そして、最後に強調されているのが「神の選び」です。15:16以下です。罪深いわたしたち、これを憐れんでくださり、選んでくださった、それは愛と赦しを宣言することをわたしたちに委託しているのです。第一に、神への愛がなければならない。そのために召され、任命されている。あなたは神を愛しなさい。申命記6:5「あなたは心を尽くし、あなたの神、主を愛しなさい。」その律法が実現したのは、個人の努力や熱意ではなく、イエス様の十字架による罪の赦しなのです。わたしたちの努力には解決はないのです。むしろ痛みを逃げず、捨てること、神の刈込に任せることです。赦しを受けた結果が、神への愛、隣人への赦しの愛となって実を結ぶのです。

「わたしの愛にとどまりなさい」と言うお言葉は、キリストの体なる教会の枝となり、教会と共に生き、教会と共に互いに愛し合い、この教会と共に、人生を終えなさいということです。それが福音書の日課にあるように、ブドウの実を結ぶことではないでしょうか。

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