人生で何が大切なのかわからなくなったときに読む説教
「愛の定め」 マタイ22:34-40
人間の社会にはさまざまな決めごと、つまりルールがあります。小学校では決まり(やくそく)、中学校では校則と言います。そのなかで大切なのは何でしょうか。制服、運動着、カバン、靴を同じものに定めています。これは、貧富の差をなくすこと、平等を目標にしています。ただ最近はブランドのカバンなどもあるようです。登校、下校の際に、忘れ物を取りに一人で帰らない。持ち物に名前を書いておく。また、子どもだけでカラオケやゲームセンターに行くことを禁止しています。しかし、決まりには謎のものが少なくないそうです。シャーペンは芯が床に落ちるから禁止だそうです。消しゴムはにおいのするのは禁止。勉強に集中するためだそうです。別の教室には一歩でも入ってはいけない。また、人に迷惑を掛けないとありますが、いじめを禁止していません。英語ではルーラーと言えば物差しのことです。長さを決めるからです。ですから、ルールは支配するという意味もあります。また、ルールは規則であり、旧い言葉では掟とか定めです。国によってルールは違います。中国の学校では、社会の基礎として家庭での愛を第一にしています。これは、世界共通のルールだと思います。確かに、「愛の掟」は世界共通ではないでしょうか。
さて、今日の福音書の日課を見てみましょう。意地悪な学者がイエス様を困らせようとして、613条項ある決まりの中で、最も大切なのは何ですかと聞きました。当時のユダヤ人の決まりには色々と変わったものもありました。それは現代でもあまりかわりません。わたしがイスラエルに住んでいた時に、哲学者マルチン・ブーバーの友人であり、伝記も書いているベン・コーリン氏にユダヤ人礼拝堂で偶然に出会いました。持っていた本にサインをお願いしたら、「わたしはリベラルなユダヤ人だが、土曜日だから文字は書かないよ」と笑って答えました。安息日である土曜日には、ユダヤ人は文字を書いてはいけない決まりがあるからです。そうした、決まりの中で、何が一番大切なのでしょうか。これが学校なら、廊下を走らないのと、スカートの長さではどちらが大切なのかというような、判断が難しい質問です。そこで、イエス様は、神を愛すること、隣人を愛すること、これが大切だといいました。中国の学校の重要な決まりは家庭愛、そして友人と先生への愛だそうです。確かに、中国では「先生の日」という日があって、その日には生徒が先生にプレゼントをあげるそうです。わたしは過去20年くらい、大学で英語を教えていますが、学生からプレゼントをもらったのは一回きりです。それは中国からの留学生からでした。この中国は共産国ですから、神への愛は教えられていません。しかし、こうした愛の条項があるので、現在十数億もある人口のなかで、自殺者の比率は日本の3分の一だそうです。しかし、老人の自殺は増加しているようです。少子化政策で家族愛が保てないのが原因のようです。やはり、愛なしには、生きていくのも難しいのは確かです。
愛は良い事です。しかし、人間的な愛は、その要求が満たされないと憎しみに変わるものです。自分の求めているものが与えられないから、怒るのです。弟子たちの例を見ても、それまでのイエス様への尊敬、イエス様への愛は消えてしまったことがあります。愛の対象が素晴らしくなくなった途端に、愛は消え、失望に転換します。ただ、この愛は一種の自己中心主義であり、過度の期待をかけることは、罪の世界の現象であるともいえます。相手が自分の期待通りには動かないことは、もともとわかっていることだからです。
イエス様は、ですから、家族愛でも、友人愛でもなく、第一に神への愛をあげました。ここを押さえておけば、あとは解決します。例えば、学校で辛いことが起こっても、神への愛がしっかりしていれば、希望を失うことはありません。神様が守ってくださることを知っているからです。「引きカメ」と言う言葉と同じです。目の前のことに悩んでいる時に、カメラを引いて遠くから映像を見ると、「悩む意味はなかった」と気づくことがあるというのです。神への信頼は、究極の「引きカメ」だと言えるでしょう。ところが、友情中心だと、目の前の困難に巻き込まれてしまい、希望を失ってしまいます。自殺するケースにもなります。悲しいことです。ですから、日本ではもっと神の愛を伝える必要があります。
ただ、イエス様のルールは深いものです。愛は自分を守るだけではありません。正しいものが正しくない者のために苦しまなくてはならないという定めが神の愛のルールの根底にあるからです。それは、十字架の愛と言えるでしょう。
イエス様はだから、愛が一番大切な神の掟であると教えたのです。これはルカ福音書6:27節以下に詳しく書いてあります。「憎む者に親切にする、悪口をいう者、侮辱する者に祝福を祈る、奪う者には与える」、それは抵抗しないということでもあります。インド独立の指導者だったガンジーはこの言葉に動かされて、無抵抗の戦いを考案しました。
本物の愛には、「もし」、という人間の条件がありません。相手の反応を求めません。愛は無条件の愛です。愛は、重い掟です。なぜ掟なのかというと、神が定めたことで、それによって恵みがあるからです。神のルールは愛です。
愛のない欲張り劉さんは裁かれて滅んでしまったという、中国の童話があります。イエス様を困らせようとしたユダヤ人も、ローマ人によって攻撃されて滅びました。わたしたちも、愛の掟を忘れるならば、やがて滅んでしまうでしょう。あるいは、いま滅びに直面しているのならば、それを環境のせいにせず、愛の不足だという事に目を開かれるならば救われるでしょう。イエス様の教えに従った弟子たちは、神の愛を伝えていき、激しい弾圧をうけても滅びませんでした。
イエス様は、愛に生きる時に多くの報いがある、神の祝福が豊かにあると教えました。なぜなら、神は条件の神ではなく、無条件の愛の神だから。神こそが、「憎む者に親切にする、悪口をいう者、侮辱する者に祝福を祈る、奪う者には与える」存在であり、まさに福音の与え主だからです。それは十字架の愛でした。また、それは2千年間、教会で伝えられてきた喜びです。わたしたちはこの喜びを見失ってはいけないと思います。
わたしたちは弱い人間ですから、人を裁いたり、冷たい目を持って人を見たり、憎しみ、ねたみ、恨みを持ってしまう場合もあるでしょう。「あなたたちの内には神への愛がないことをわたしは知っている。」(ヨハネ5:41)とも書いてあります。しかし、聖書の言葉を通して必ずイエス様の愛を受けます。それに、愛は悲しみを通して受けるものでもあります。
南アフリカの黒人差別を撤廃したネルソン・マンデラは国家反逆罪の罪で46歳の時に終身刑を受け、その後27年間の投獄という悲しみと試練を通して赦しの愛を学びました。彼の人生は73歳から始まったのです。大統領になったのは76歳です。そして愛には罪以上の力があります。イエス様を裏切ったペトロも書いています、「神は豊かな憐みによってわたしたちを新しく生まれ変わらせてくださった。」(第一ペトロ1:3)愛の掟、愛のルールは、人間の力によってでは決して実現できません。それは100パーセント神の賜物、神が時に従って与えて下さるのです。それは、皆さんがこの説教を読んでいる今かもしれません。「どんなものも主キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8:39)と書いてあります。わたし自身も、この神の愛を知って救われました。神の愛を知る前には、心の痛みだけがあったのです。ですから、わたしたちの苦境を知って、神は愛を与えて下さるのです。この愛の定めは、聖霊の働きによって、わたしたちの心の中にも必ず実現します。