この世の終わりについて考える説教(教会暦の最終主日)
「この道や行く人もなく世の終わり」マルコ13:24-31
早くも一年の終わりです。教会では一般社会より1か月ほど早く年末を迎えます。特に今回の日課であるマルコ13章は、終末ということを教えています。「終わり良ければすべてよし」ということわざもあります。わたしたちは、どのような心構えで一年の終わり、人生の終わり、世界の終わりを迎えるべきでしょうか。旧約聖書の日課も終末論でして、これはダニエル書からです。うちの子供の壇はこのダニエルからとったのですが、本人が子供のころはウルトラマンの諸星ダンからだと思っていました。それにしても、ウルトラマンやゴジラを制作した円谷監督がクリスチャンだったので、諸星ダンもダニエルから来ているのかもしれません。それにしても、このダニエル書を読んでみますと、そこに「日の老いたる者」という不思議な言葉があります。それは何でしょうか。これは、世の中の最終決断者という意味です。一年の終わりを考える時に、わたしたちはどうしても自分がこうしたとか、自分がこうしなかったと思いがちです。去年も今年も、コロナのことでもちきりでした。しかし、そからは、人生の最終決断者がいらっしゃるという考えがでてきません。実は、それが人間の罪の姿なのです。自分中心に世の中が回っていると考えるからです。信仰の天動説ともいえるでしょう(注:昔の人は自分が立っている地球のまわりを太陽が周回していると考えた)。しかし、ホントは地動説が正解であり、自分が最終決断者の周りをまわっているのにすぎないのです。
では福音書の日課を見ましょう。イエス様は冷めた目をもっていました。イエス様は勿論、信仰的な地動説です。今日の日課の前の部分ですが、同じマルコ福音書の13章で、弟子たちはエルサレムの神殿の素晴らしさを讃えたと書いてあります。人間賞賛ですね。その神殿は、もはや現存しませんが、それは古代の7不思議に数えられるような巨大な建造物でした。山を削って縦500メートル、横250メートルの台座を造りました。その巨大な数十メートルの台座の上に約70メートルの高さの神殿が立っていたのです。弟子たちはガリラヤの田舎の出身でしたから、驚きました。誰でもそうでしょう。しかし、イエス様は違いました。イエス様に罪がなかったという事は、失敗しなかったという事ではありません。大工の仕事をしていて、間違った寸法ではかってしまい、うまく材料が組み合わされなかったこともあるでしょう。仕事中に誤ってケガをしたこともあるでしょう。でも、それは罪とは関係のないことです。イエス様が、無原罪であることは、イエス様が、本当に、最終決断者である神を知っていたという事です。だから、大勢の人たちのように、人間が造った神殿の巨大さに圧倒されなかったのです。それは、神から見ればチリに等しいものにすぎません。
現代でも、人間が人間の業の偉大さに圧倒されて喜ぶという状況はかわりません。コロナで最近は中止されていますが、その一例はダムツアーではないでしょうか。ダムは巨大な建造物です。ある場所のダムは、高さ186メートルもあり、171人もの工事犠牲者を出して完成したものです。タジキスタンにある世界最高のダムは300メートルの高さです。イスラエルの神殿も同じようなものだったでしょう。それも、クレーンやブルドーザーなどの建設機器がない時代にできたのです。それに、土台となる山が既に高かったので、遠方から見るとその巨大さは想像を絶するものでした。
しかし、最終決断者を知るイエス様にとって、その威容は、空しいものでした。やがて壊れて石の山にすぎなかったのです。むしろ、イエス様が注目したのは、壊れてしまう建物ではなく、この神殿で自分の持ち金のすべてであるレプトン銅貨2枚、現在の通貨で100円程度を感謝の内にささげた寡婦の事でした。弟子たちの見ていたものと、イエス様が見ていたものとは、これほど違ったのです。その続きの部分が今日の日課です。
さて、わたしたちは何を中心に見ているでしょうか。わたしたち人間が頼りにしている基盤というものは、容易に揺り動かされ流動化されてしまうということを見ているでしょうか。それとも、巨大地震が起こったあとで、こんなはずではなかったと世を呪うのでしょうか。
24節にある、太陽が暗くなり、星が落ちるということは、まさに存在の根本にある不安定の象徴です。しかし、人間の安定の基盤が無くなることは、神の救いの完成が近いということでもあります。「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」(Ⅱペテロ3:8-13)と書いてある通りです。
それが太陽、月、そして星であっても、わたしたちの眼に見えるものはやがてエルサレムの神殿のように見えなくなるのです。弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』という言葉はやがて消えさるものです。実際に現在のエルサレムに行っても、そこにあるのは、神殿の土台だけです。その土台さえも、後代の建造物の下になってしまい、特別な場所に行かなくてはみることができません。
ある面では預言者であったイエス様は、消えゆく世界、消えゆく時の流れの中で、冷静な目をもって、消えることのない最終決断者、「日の老いたる者」を伝えました。つまり、わたしたちがヨブのようにすべてを失うことがあっても、星が落ち、太陽が輝きを失うことがあっても、最終決断者である神こそ揺るがない土台だと教えたのです。
では神の土台とは何でしょうか。
イエス様はその神の土台のことを、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」方だと教えました。この土台は見えない土台です。人々が見て驚いたり、感心することができない土台です。なぜなら、それは愛だからです。人生の最終決断者は愛です。神は愛なのです。だから、イエス様は、人工的な建造物ではなく、野の花を見なさい、空の鳥を見なさい、それらは神の愛によって養われていると教えたのです。当時のユダヤ人も、世の終わりの教えが聖書にあることを知っていました。しかし、それは裁判のような、最後の審判の時であって、救いとは何の関係もないものでした。おそらく、わたしたちの終末観も似たようなものでしょう。昔に流行したノストラダムスの預言も同様でした。人間の作り話でした。しかし、イエス様だけが、「日の老いたる者」である神が、悪人や罪人、人生の失敗者を捨てる方ではなく、救う方であることを教えました。「日の老いたる者」であり、人生の最終決断者は愛なる神なのです。
現代は不安定な時代です。政治にしても、雇用においても不安定です。コロナ禍でこの不安定さは万人周知の事柄となりました。個人的には、体調の不安定に悩む場合もあるでしょう。しかし、その時こそ、神の愛という土台に建てられるときなのです。イエス様はそれを伝えたかったわけなのです。なぜなら、目に見えない愛の神を知るなら、そうした試練が試練でなくなるからです。重大な試合とか、重大な試験とかを楽しみにする人がいます。何故だと思いますか。ルターもそういう心境を語っています。何故そういう心境になるかというと、十分に準備ができているからです。準備ができているときに、神殿が瓦解し、星が落ち、太陽が輝きを失う、裁きの時にも、救いの確信をもてるのだと思います。
ある人が、横浜で外人の伝道者の説教を聞きました。聖書の言葉に勇気を与えられました。それは、すべての困難の背景には、最終決断者である神によって救いが準備がなされている、という話でした。その伝道者はアメリカ人でした。彼の例話の中で、荒野の真ん中を走る自動車がパンクした話がありました。運転手はその時、タイヤを交換しようとしましたが、ジャッキがなかったのです。車が上がらないとタイヤが交換できません。万事休すです。しかし、その人が人生の最終決断者に祈ると、車が上がらないなら地面を掘り下げなさいというお告げがあったそうです。そして無事にタイヤ交換できたという話でした。その横浜での伝道集会に参加して帰路についた人は第二京浜道路で東京に向かいました。すると、自分の車もパンクしたのです。ああ、これはあの話と同じだと思いました。でも、自分の車にはジャッキもあるから安心だと思いました。ところが、車外にでてタイヤをみると驚きました。高速道路でパンクした影響で、タイヤをとめていた4つのナットがナントなくなっていたのです。これでは、ジャッキで車をあげて、タイヤ交換してもタイヤは外れてしまいます。ですが、この人は、伝道集会で、神にあって、すべての準備はできていると学びましたから、安心して祈りました。そして、答えをいただきました。無事に車を運転して帰宅しました。どのようにしたのでしょう。残りの3つのタイヤにあった4つのナットの一つをはずし、3つのナットでヤット安定させることができたのです。
この道や行く人もなく世の終わり。
人は一人で生まれて一人で死にます。寂しいものです。しかし、聖書は、わたしたちには備えがあると教えています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」というイエス様の愛の言葉を信じて、感謝の内に日々を歩みましょう。