聖書研究

殉教者ステファノの心の支えは何だったのかを使徒言行録から学ぶ

使徒言行録7章1節-29節 文責 中川俊介

逮捕されたステファノは、状況が変わっても、その信仰は衰えることなく、試練に耐え、顔には主の苦しみを担う喜びすらあらわれていました。その姿が最高法院の裁きの場に出た者の印象に残りました。この場では、大祭司自らがステファノに尋問しています。「この大祭司はイエスをさばいたときの大祭司と同じカヤパという人物であった。」[1] ステファノの罪状は、神殿と律法の否定です。逆に考えると、当時のユダヤ教が、神殿祭儀と律法の厳守によって成り立っていたことがわかります。神殿は神の贖罪の場であり、日々の行動規範は律法だったのです。ところが、イエス様の教えや、その教えを継承したステファノの教えが、こうした基本信念に抵触することとなったのです。ですから、大祭司は、人々が訴えているように、ステファノが神に逆らい、反律法、反神殿の考えを持っているのかと尋ねたのです。

2節を見ますと、ステファノはこの尋問に対して、とても親しみを込めて「兄弟たち」と呼びかけて語り始めました。福音を伝えたかったからです。後の時代に、捕えられたパウロが弁明したときにも福音伝達の目的がありました。ステファノが語りたかったのは、イスラエルの信仰の歴史でした。「イスラエルがどのようにして、律法と神殿を与えられ、ついに神殿が完成する頂点に達したかその次第を、彼は物語った。」[2] 迫害しているものと共通の立場にたつには、民族の歴史を語ることが一番でした。また、これなら列席している人々も彼の話を中断しないからです。その話は、民族の父と考えられていたアブラハムから始まりました。勿論、聖書にはその前の時代にあたる人々としてエノク、ノアやセムなども登場するのですが、ユダヤ人の意識としては、やはり、民族の父はアブラハムでした。実際に、ヘブロンにあるアブラハムの墓所にいってみると、アボテイヌ・アブラハム(我々の父・アブラハム)と入口に書いてあります。ステファノもやはり、彼の主張をアブラハムから始めたのです。つまり、律法の初めはモーセなのですが、その前に信仰の人、民族の父であるアブラハムがいます、ということなのです。「神は、ただ頭の中の観念ではなく、事実、歴史の中に働いて、動かしておられる神であることを言っています。」[3] その、アブラハムの人生に関しては、創世記11章31節には、アブラハムの父テラがアブラハムをその妻を含む一族をつれてメソポタミアからハランに移住したとあります。そして、テラが亡くなった後で、アブラハムはカナン地方に向かったと書いてあります。ところが、ステファノの主張ではアブラハムはメソポタミアにいる時に既に神の指示を聞いています。これは同時代の聖書学者ファイロの解釈には既にみられたことだそうです。つまり、神の指示を二度にわたって聞いたということです。また。神の事を「栄光の神」と述べているのも特徴的です。神に逆らっているとの悪評に対して、ステファノは神に最大限の畏敬を示すことで弁明したのです。また、「たぶん、すべてを超越する神は人間の手で造った神殿にはすまないということを強調したのであろう。」[4] そして、4節には、ハランからカナンにアブラハムが移ったのは、彼自身の努力によるのではなく、「神が移された」と述べています。アブラハムのことを語っていると、いつのまにかそれは神の歴史になっているのです。わたしたちの場合はどうでしょうか。皆で話しあってみましょう。

創世記には「アブラハムは主の言葉に従った」、と書いてあります。ここだけを見ますと、ステファノの解釈では、ハランからカナン地方への移動の前に、主なる神の強力な働きがあったことが強調されています。「天からの示しに従順な者は、地上の場所には縛られていないということをステファノは暗示しているようである。」[5] 5節では、新しく移住したカナンの地では、神はアブラハムに何も与えなかったということが強調されています。次の6節にあるエジプトでの苦難の予告は、創世記15:13からの引用です。カナンへの移住と将来の苦難をステファノは直接につなげていますが、創世記本文では甥のロトの事や、エジプトに行った際に妻のサライがファラオの宮廷にいれられたこと、メルキゼデクの祝福を受けたことなどは省略されています。ただステファノの説明において、アブラハムの子孫がカナンの土地を継承し、その後、この子孫たちが外国で奴隷としての苦難を受けるという歴史の流れは、聞いているものには把握しやすいものです。その次の7節の言葉は、出エジプト記3:12からの引用です。ですから、ステファノは歴史の流れをかなり凝縮し、彼の主張したいこと、つまり、聖書の本質に焦点を当てていきます。特に、ここで「礼拝」について述べられていることは、ステファノが暗に礼拝を否定しているのではないと示しているのでしょうか。そして、8節にあるように、話は割礼の契約に移っていきます。割礼がユダヤ人の宗教観において特別な重要性を持っていることは言うまでもありません。この割礼が神の特別な恩寵とそれに対する信仰を示しているわけです。「わたしたちの信仰は、こちら側の悟りの宗教ではありません。向こう側の宗教です。神の側からの約束にもとづいています。」[6] 律法と神殿の前に、神の一方的な主導による割礼があったことをステファノは人々に思い起こさせます。「それに割礼の契約がなかった時もあったわけで、その時のも、神はアブラハムに現れて語られたのです。」[7] これはとても大切な点です。わたしたちは、洗礼という儀式をとおして、神の子たる資格を考えますが、洗礼の存在する前であっても、神は存在し、神の働きはすべての人に与えられてきたことを覚える必要があります。それは、旧約聖書の存在意義でもあるのです。この点をどう考えるかを皆で話しあってみましょう。

9節では、ヤコブの子供たちが、ヨセフを排斥したことが述べられています。その結果、ヨセフはエジプトに奴隷として売られてしまったのです。ここまでは、ユダヤ人ならだれでもよく知っている話でしょう。問題は、なぜステファノがこうした語りかけをしたかです。この迫害を受けたヨセフの姿に、イエス様の姿を重ね合わせているのでしょうか。ステファノはヨセフに対する神の恩寵を強調します。11節以下には、ヨセフとカナン地方で飢饉に苦しんだ家族との再会の出来事が述べられています。兄弟は和解し、ヨセフは年老いた父ヤコブをエジプトに呼んだのです。彼らの生涯も終わり、葬儀の後はシケムの墓所に埋葬されたと語られました。ただ、創世記の記述によれば、サマリヤのシケムにはヨセフだけ埋葬されたのであって、その他の族長たちはアブラハムの墓のあるヘブロンのマクペラの洞窟に葬られたとあります。「ステパノが特にシケムを挙げたのは、大祭司始めサンヘドリンの議員たちの傲慢を砕き、神の恩恵は土地によって局限されないという真理を示唆する意図であったと推察されるのである。」[8] それに、他の伝承では、ヨセフの兄弟たちもシケムに埋葬されたという記録もあるようです。「当時のユダヤ人に蔑まされていたサマリヤのシケムにヨセフが埋葬されたとという事実は衝撃的であった。」[9]

17節以下では、族長の時代が終わって、その後のエジプトでの話に進みます。ここで、ステファノは神の約束の実現を強調します。ユダヤ人はいつの間にか自分たちの祖先の働きを自慢するようになっていたのですが、ステファノは原点に戻って、すべては神の約束とその働きによるのだと示しているのでしょう。どんな偉大な人間も神の存在に比べるなら、影も薄くなるのです。ステファノがイエス様から受け継いだ教えは、人間中心ではなく神中心の信仰です。「人生の旅で、神が主語になること、それが信仰です。」[10] 19節に、ユダヤ人の祖先がエジプトで受けた試練のことが語られています。これは、ユダヤ人が毎年、過越祭の時に子供に語って聞かせるハガダーの物語そのものなのです。ステファノがモーセに焦点を置くのも、反律法だという非難に対する弁明として見てよいでしょう。

23節以下で、モーセの人生が一変する出来事に触れています。その時のモーセは既に40歳ですから、古代社会ではすでに高齢に達していたと考えても良いでしょう。なにしろ、今から3200年以上前のラメセスⅡ世の時代のことです。モーセはエジプト式の教育を受け、エジプト人として育ったのですが、自分がユダヤ人の子孫であるという意識は持っていたのでしょう。ですから、モーセ個人の出来事も、そうしたユダヤ人全体の苦境と無関係ではありません。モーセはエジプト人を殺してユダヤ人を助けたため、追われる身となりました。25節に簡潔に書かれていますが、ユダヤ人を助けたモーセはユダヤ人社会から歓迎されるどころか、受け入れられることはありませんでした。モーセ自身は、この出来事が神の救いの働きの一部だと思っていたというのです。「モーセ自身は自分が神に指名された解放者であるという意識はあったのであるが、仲間のイスラエル人はこのことをなかなか理解できなかった。」[11] この辺を読みますと、わたしたちはステファノの心理の中で、ユダヤ人の救いのためにイエス様がなされたことが受け入れられなかったという背景を感じずにはいられません。「ルカは、きっとクリスチャンの読者がモーセとイエスのあいだに救い主としての類似点があることを伝えようとしているのであろう。」[12] 25節の後半にあるように、ユダヤ人は心を頑なにしてしまい、モーセの働きを理解しませんでした。その証拠に、26節にあるように、モーセがイスラエル人同士の争いの仲裁に入ると、強い方の男がモーセを突き飛ばして悪態をついたのです。モーセは律法の授与者であり、イスラエルの預言者であり、神の言葉を仲介する重要な役割を持つにいたった者でした。それは誰も認めることです。しかし、どうでしょうか。モーセの活動の最初には、このような無理解と排除があったのだ、そしてそれは敵対するエジプト政府ではなく、同胞のユダヤ人からあったのだということを明らかにするのが、ステファノの意図でしょう。「モーセを拒絶したことは、イスラエルの歴史に深く根ざしたことであった。」[13] 子供の時に殺されそうになり、同胞から嫌われたモーセの生涯はキリストの苦難を予告するものでもあります。また、ステファノも同胞のユダヤ人から告発され裁判を受けていたのです。歴史を回顧するならば、預言者も決して敬われなかったことがわかります。「わたしたちは何の障害もなくぐんぐん進んでいく仕事は、かえって神の御業とはちがうのではないか、と疑ってみなくてはなりません。なぜなら神の御業は『涙の谷、死の影』があり、そこを通って多くの泉あるところとするからであります。」[14] この文脈のなかでは、イエス様が敬われなかったことも当然です。モーセの場合は十字架につけられたのではありませんが、エジプトを脱出して遥か彼方の砂漠地帯であるミデアンの地でひっそりと暮らすことになりました。「人間は弱められ、自分のものに絶望しなければ、キリストの宝を受けることはできません。ミデアンの荒野は、神が忍耐を学ばせる学校でありました。」[15] その忍耐のときは40年もの長さだったのです。このいきさつも、ユダヤ人ならだれでも知っていたことでした。しかし、ステファノは歴史を振り返り事実を検証することで、ユダヤ人が律法厳守などと言っているが、その出発点は、神の救いの働きに対する敵対ではなかっただろうか、という重大な問題提起をしているのです。わたしたちにも言える事であり、自分が神の側に立っていると錯覚して、実は、神の子を虐待している場合もありうるのです。また、「メシアの来臨の新しい時代が来ているとすれば、聖所と律法が廃れて、新しい宗教の形態が生まれるのは当然ではないでしょうか。」[16] これは現代の礼拝形式にも大きな示唆を与えることでもあります。

[1] 矢内原忠雄、「聖書講義1」、岩波書店、1977年、641頁

[2]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、88頁

[3] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、99頁

[4] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、134頁

[5] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、145頁

[6] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、104頁

[7] 尾山令仁、「使徒の働き上」、羊群社、1980、247頁

[8] 前掲、矢内原忠雄、「聖書講義1」、644頁

[9] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、139頁

[10] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、100頁

[11] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、150頁

[12] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、140頁

[13] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、75頁

[14] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、108頁

[15] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、110頁

[16] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、247頁

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