今週の説教

人間を自由にする道を学ぶ説教

「街路樹に電飾、待降節」      マタイ3:1-12

今はアドベント(待降節)の季節です。アドベントの意味はイエス・キリストの救いの時がこちらに向かって進んでくることです。わたしたちは、救いについて考える時、自分が何かしなければいけないと考えがちですが、聖書の教えは逆です。救い主が苦しみ悩むこの世のわたしたちの所に来て下さったことを告げています。

今日の個所のヨハネはギリシア語ではイワネース、スペイン語では聖ヨハネがサンホセです。ヨハネは、イスラエル南部のユダ地方で活動していました。ユダ地方は砂漠との限界地点です。ベエルシバという町があって、その町の南はシナイ半島やアラビヤ砂漠です。ここに行った時の思い出があります。地元のレストランに入ったのですが、同じ研修に参加していた外国人の牧師さんたちはビーフ・ステーキを注文しました。わたしもステーキは嫌いではないですが、その辺は乾燥地帯で羊しかいませんでしたので羊肉の料理を注文しました。わたしの料理はおいしかったのですが、外国の先生の料理は肉が堅くて食べられなかったそうです。やはり、その土地ならではの食べ物があるわけです。昔から、郷に入れば郷に従え、と言われる通りです。しかし、なんとこれは4世紀に聖アンブロシウスが聖アウグスチヌスに与えた言葉だそうです。それは、ミラノ出身のアウグスチヌスがローマを訪問しようとしたとき、ローマでは土曜日が断食の日として守られていました。そこでローマ人の先生であるアンブロシウスに相談したところ、「ローマではローマ人がするようにしなさい」というアドバイスを受けたそうです。これが日本にまで来て、郷に入れば郷に従え、と言われるようになったわけです。

それにしても荒野では砂と岩のほか何もありません。そこでは、そこにしか通じない独特な考えがあるでしょう。実は聖書はそうした世界の書物であることを考えた方がいいのです。ヨハネは何もないところで、ただ、神の国を述べ伝えていました。「悔い改めよ」とは、神の国が近づいたので、その方に方向転換しなさいというメッセージです。

そのことは、預言者イザヤの言葉にさかのぼることができます。そのイザヤの言葉によれば、荒野で声がするというのです。主の道を用意すべきだというのです。これは理屈からいうとおかしいことです。第一に荒野で、道を準備する必要はありません。平らだし、どこでも道になるからです。しかし、たくさんの曲がりくねった道を選ぶのはは迷いやすいものです。わたしたちの人生も迷いやすいものです。ですから、ヨハネは迷わない一本の道を伝えたのです。

そのあとで、ヨハネの服装についての説明が入ります。神の国への道を整備する話なのに、ヨハネがどんな服装をしていたかの話題に移ることは、不思議なことです。それは、当時の宗教家が華やかな飾りをつけていたのと対照的に、まさに荒野の何もない中の人であり、砂漠のラクダの皮を身に着けていたという事でしょう。これが本当の宗教者だと言っていると思います。ちなみにラクダの毛はカシミヤと並ぶほどの高価なものだそうです。ただ、ヨハネにとっては、砂漠の夜は寒いですから、ラクダの毛皮で体温を保ったのでしょう。そういえば、昔はラクダのズボン下などがありましたが、今はヒートテックにかわりました。

また、ヨハネは皮の帯をしていました。この帯は現在のベルトではなく腰巻のようだったと考えられます。その当時の上流階級の人々は、亜麻布の上に金糸の刺繍をした帯をしていました。ヨハネの皮の帯と言うのは農民や牧畜者の印でした。ヨハネは上流社会の出身だったにもかかわらず、その服装は豪華ではなく、質素だったと聖書は示しているのでしょう。

さて、ヨハネの食料のイナゴについてはレビ記11章によれば羽長イナゴ、大イナゴ、小イナゴは食べてもよいということでした。ですから、ヨハネがユダヤ人の食料規定の律法を破っていた訳ではありません。それに野蜜も普通に食されていました。ここで何故聖書が、ヨハネの衣服や食料について触れているのでしょうか。これは、列王記下1:8では、預言者エリヤが「毛衣を着て腰には革帯をしていた」と書いてありますから、ユダヤ人なら気付き、驚くでしょう。まさに郷に入れば郷に従え、と言われる通りです。わたしたちもユダヤ人の考えで聖書を読むといいわけです。エリヤはモーセと並ぶ最大の預言者でした。そこでエリヤとヨハネに共通したのは、二人とも社会の破滅や終末を予告した預言者だったことです。当時のアウグスト皇帝を頂点とするローマ帝国が、政治的にも、思想的、宗教的にも終末を迎え、希望を失っていたのです。占い、死体崇拝、宗教的詐欺などがありました。

そして、社会の破滅を予告したこのヨハネの伝道の結果、エルサレムの住民、ユダの住民、ヨルダン川流域の住民が彼のところに出て行って、彼から洗礼を受けたのです。

その時の群衆に、ファリサイ人やサドカイ人というユダヤ教のグループに属する人々も含まれていました。彼らが罪を告白して洗礼をうけるなら大いに結構なことであるとわたしたちなら考えます。しかし、ヨハネは彼らに対しては洗礼の前に悔い改めの実を示せと要求しました。彼らの問題は偽善だったからです。偽善とは、彼らが言ってることは正しい、しかし、行っていることは間違っているわけです。これは、誰にでも起こり得る事です。子供に勉強しなさいという親が勉強していないのです。自分が嫌なことを人に強制できません。

ここまでが、ヨハネの宣教です。しかし、それがすべてではありませんでした。大切なのは、アドベントのしるしである11節以下です。もっと優れた方が来るというのです。だからこの箇所は待降節に読まれるのです。その方と自分を比べると自分は召使いになる価値もない。そのかた、イエス・キリストは聖霊で洗礼を授ける。そして、ヨハネは罪を指摘するにとどまり、神の国への道を示すのにとどまっていたのに、イエス様の聖霊はまさにその道であり、神の国の到来そのものだというのです。イエス・キリストこそ、愛を捨てない方であり「何ものをも滅ぼさない」方であり、毒蛇さえも、サタンさえも屈服する救い主でした。

ヨハネは、暗い世相の中で殺されますが、それでも彼は闇の中に輝く光イエス・キリストを示したのです。アドベントの光です。わたしたちがイエス・キリストの救いを信じるとき、今までなかった、迷いのない道が現れます。人生の荒野に神の国に至る一本のまっすぐな道、それは自由です。そしたら、わたしたちはもう迷いません。アンブロシウスが言いたかったのは、イエス・キリストに従う者の心の自由ではないでしょうか。自分はミラノ人だからローマ人のようにはしないというのではなく、規則や評判に縛られないのです。パウロも、第一コリント9章19節以下でこう言っています。ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法のない異邦人には異邦人のようになり、弱い人には弱い人のように、すべいての人にはすべての人のようになった。それはイエス・キリストがこの世に生まれて下さって自由を与えて下さったからです。クリスマスの喜びは、すべての束縛から解放される喜びです。

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