印西インターネット教会

幸せな人生の歩み方を聖書から学ぶ説教

菊川教会説教「神と共に歩む幸い」ルカ2:41-52

初めて菊川に来ました。菊川は東海教区にありますね。わたしの出身教会は、東京の本郷ルーテル教会ですが、実は私も東海教区の出身だとも言えます。本郷教会は、最初は東海教区に所属していまして、お世話になったハイランド先生夫妻、その前のラーソン先生、近くの教会のルチオ先生など同じ宣教団体の方々でした。ですから、今日は久しぶりの帰郷しての説教になります。今回の説教題は、人生の歩みでありますが、掛川にも旧東海道が通っていて石畳などが残っているそうですね。わたしの子供のころは埼玉県の和光市というところでしたが、その頃は地域格差が激しくて東京と埼玉の間の東埼橋を渡ると都内の道路は舗装されていました。埼玉側は雨が降ると水たまりやぬかるみができて大変でした。おそらく、江戸時代の菊川もこうした石畳がスゴク便利だったと思われます。路を行くには道路がしっかり舗装されていることが大切です。

では人生の道路はどうでしょうか、そこにも水たまりや泥沼ができやすいものです。昨年からは特にコロナのために、苦しんでいる方が多いでしょう。そのためにも、強い心と希望が大切です。この強い心と希望を与えてくれるのはイエス・キリストに対する信仰だと思っています。これは、日本の多くの人が信じている神頼みとは違います。これは、神頼みではなく、「神と共に歩む幸い」を感じていく信仰です。おそらく、コロナにもめげずにこうして礼拝を守っている皆様には、そうした信仰が既に宿っていると思います。ただ、信仰の成長には終わりがありませんので、さらに聖書からご一緒に学びたいと思います。

先ず神とは何か。この文字はもともと神道の用語ですが、神とは左側が祭壇をあらわし、右側は稲光の電気を現しているそうです。雷への畏敬の念でしょうか。ただ、神という言葉ほど誤解された言葉はないそうです。日本で最初に翻訳された、ギュツラフ訳聖書(1836年完成、最古の日本語聖書)ではハジマリニ、カシコイモノ、ゴザルとなっています。カシコイモノとは(恐れ多い、高貴だ、身分が高い)などの意味です。その次の世代の聖書には「天の司」とか上帝と訳されています。まあ、わたしたち日本人の神という存在の理解はこの時代から進歩していないわけです。高い天にすわっている白髭のお爺さんで悪いことをしたら罰を与える、恐れ多い方なのです。もしかしたら、わたしたちも、神、をそのように理解しているかも知れません。ところが違います。この点を深く見て生きましょう。

「神」とはヘブライ語AL、YHWH禁止、力、存在をもたらす、人格的、意志的神

英語はGODでGOODと同意語、これが聖書の神に近い、だから福音もGOOD NEWSです。GOD NEWSでもいい。神様の良いお知らせ。これをわたしたちは信じているのです。

さて、次に「共に」とは何か

英語はWITHであって伴っている

中国語はGEN踵の意味、あとに付き従う、嫁ぐの意味さえある

ヘブライ語ではYHDであり、一つとなる、特別に選択される、選民の意味ですから、わたしたちのような信仰者のことでもあります。

では「歩む」とは何か

ヘブライ語でHLH、従うとか生活するの意味です。ですから、コロナで仕事がなくても、家族に会えなくても、あるいは自分がコロナに感染しても、クリスチャンは勝手に悩みません。ルターの時代にも疫病が蔓延しましたが、信仰に立つルターは勝手に悩んでいません。福音に生きていました。

最後の「幸い」とは何か

ヘブライ語ではASHRであり、信用とか、承認のことであり、横道にそれず、神の呼びかけに答えてまっすぐ歩み、祝福されることです。 箴言3:18「幸いを得る」イザヤ30:18「なんと幸いなことか、主を待ち望む人は」と書かれています。神との関係が、幸いには欠かせません。

ところが、日本語の幸いは、原語はさきわうであり、大和の国は言霊(言葉の使用をつつしんだり避けたりすること)のさきはふ国、古代の文書に書かれています。これは栄えるの意味とか運のいい事あり、その人にとって望ましい事をあらわしています。

英語の幸福であるハッピネスも似ています。これはハップニングからきている偶然の好運のことであって、神とは全く関係ありません。ですから、説教題を細かく解釈すると、「わたしたちをわたしたちという存在として生かしてくださる方に従って生活することは祝福の人生である」、という意味になります。

さて「わたしたちをわたしたちという存在として生かしてくださる方に従って生活することは祝福の人生である」、ということを教えている今日の福音書の箇所をルカ2:41-52から学んでいきましょう。クリスマスの次の日曜日、つまり今日は、「聖家族」の祝日にあたります。聖家族とはイエスを中心にしたマリア、ヨセフの一家のことです。今日の聖書箇所はこの家族の日常生活の一こまを伝えたものです。お祝いの時には家族と過ごす豊かな時です。しかし、家族がいなくて寂しい者もいる。わたしが留学して5年間学んだアメリカの神学校には600人ぐらいの学生がいました。寮生だけでも300人くらいいました。ところが、クリスマスシーズンになると、全員が故郷に帰ってしまい淋しくなり、寮の食事もなくなるのです。それを見た、友人のレオン君がクリスマスにベル・プレーンという「大草原の小さな家」というドラマの舞台からも遠くない故郷の家に招待してくれたのです。彼の家族と、本当に楽しいクリスマスを過ごすことができました。この時に関係してくれた彼のお母さんは2年ほど前に90歳くらいで亡くなっていますが、若いころには亡くなった自分の姉妹の子供二人を引き取って育てっていたのですね。アメリカのルーテル教会にも、こうした優しいクリスチャンがたくさんいます。

福音書に書かれていることは伝記ではなく、あくまでも福音=良い知らせを伝えることを目的としています。今日の箇所もそうです。しかし「イエスの幼年物語」という偽典も存在していて、12歳になるまでのイエス様が、安息日を守らなかったとか、彼が言ったことがすべて成就して、彼を非難した者が目が見えなくなるなどの罰を受けたと書かれています。つまり、イエス様を、スーパーマン扱いしているわけです。これは聖書の教えではありません。こうした偽典が正典にならなかったのは、福音的ではないからです。こんなのはGOOD NEWSではありません。悪いことをしたら、その罰に雷が落ちて黒焦げになってしまったというのと同じです。聖書は悪い人を罰するのではなく、その救いのために救い主イエス・キリストが身代わりとなって死んでくださったと教えています。

しかし、わたしたちも、聖書の言葉を規則や罰則として考えやすいので、常に福音として受け止めたいものです。

さて、今日の聖書の日課も、まだ1月6日の顕現節まではクリスマスシーズンなので、幼子イエス・キリストがテーマになっています。余談ですが、東方教会では、1月6日がクリスマスです。

この話はルカ福音書にしか残っていません。41節過ぎ越し祭りには大勢がエルサレムに集まった、丁度、現在のメッカのよう、メッカ巡礼は世界中から160万人集まる、両親はイエス様が12歳になったので慣例によってエルサレム礼拝したわけです。

イエス様の家族が行ったのはヘロデ王が造った第二神殿でした。しかし、そこでイエス様が行方不明になりました。多数の参列者が渦巻いていて見つけるのは無理だったでしょう。神殿にいったのが慣例だと説明しているのは、ユダヤ人の子供が12歳になると、バーミツバー(律法の子の意味)の祝福が会ったわけです。

43節、両親は帰路でもイエス様の不在に気づかなかった。集団行動として参拝していたことがわかる。日本のお伊勢参り半年で460万人、日本最初のツアー旅行だったそうです。イスラエルも同じでして、郷里の人々の団体旅行、だったから気づかなかったのでしょう。

45節、両親はイエス様を探してエルサレムに戻った。エルサレムからナザレまで140キロくらいでした。(わたしがイスラエルに留学していた時に、現地で聞いたのですが、当時の人は、一日、エルサレムからエリコまで行って仕事をして帰ったそうです。これは往復60キロです。)ですから、ナザレからは、ゆっくり行って3日ぐらいの時間がかかったと思われます。両親たちは、イエス様がいないと気づくまで、三分の一くらいの旅路を言ったようです。ちなみにお伊勢参りは江戸から伊勢神宮まで往復2か月くらいかかったそうです。それはともかくイエス様の両親たちは、また一日以上かけてエルサレムに戻ったのです。神殿でイエス様が見つかったのは、3日後でした

46節、イエス様は神殿で学者と議論していたのは、すでに聖書に精通していたからです。大工のイエス様になる前に、神通力のようなものを持っておられたわけです。神の子だった。単なる議論ではなく、深い聖書理解があった。だから、後に、神は愛であると断言できたのですね。

48節で、両親さえ驚いている。12歳の子供の成長を知らなかった。人間には、親でさえ理解できていないことがあると示されています。お母さんのマリアさんの言葉は、いかにも母親らしい心遣いであり、人間的な愛があらわされている。しかし、イエス様はすでに神の愛を知っていました。神の愛に生きていました。ですから、洗礼の時も「わたしの愛する子」という天からの声を聞いています。

これはわたしたちにも重要です。実際に声で聞こえなくても「あなたはわたしの愛する子である」という言葉を、ラテン語でプロメ、つまりわたしに向けられたありがたい言葉として常に感じる事、それが聖霊に満たされることではないでしょうか。その後のイエス様の人生でも、失敗はあったでしょうし、人間としての不完全な面もあったでしょう。しかし、「あなたはわたしの愛する子である」という言葉は絶対に変わらなかったのです。わたしも、「神は愛である」という言葉に触れて、信仰を持ってから、今年でちょうど50年になります。しかし、この50年間、「あなたはわたしの愛する子である」という言葉は50年間変わらなかったのです。それは、わたしの言葉ではなく、神からの言葉だからです。変わらないはずです。ですから、今回の説教題である、「神と共に歩む幸い」とはわたし自身の証しの言葉でもあります。また、それはわたしの母の言葉でもあります。母はもうすぐ103歳になりますが、頭もハッキリしていて元気です。その母が、洗礼を受けた時に言った言葉が、「お前を見ていたら、お前の信じている神様が本当だと分かる」でした。この母も50歳ころに洗礼を受けましたが、幼いころに山梨県の故郷の村で、教会学校に行っていたことがあったそうです。伝道の種が既にまかれていたのです。神の働きとは、そういうものです。今日みなさんが来てくださったことにおいても、神の種はまかれています。

さて、49節でイエス様は、天の神様が自分の父であるという事を示しています。

これは、わたしたちにも当てはまることなのです。しかし、イエス様が最初にこの啓示を受けました。当時のユダヤ人にとっては、神は絶対他者であり、神を人間に近づけて考える事は冒涜でした。場合によっては死刑です。後に、過ぎ越し祭で、イエス様は神殿を冒涜したという非難を受けて処刑されています。ルカ福音書の記者はそれを知っていますが、イエス様の神性をここで強調しているわけです。キリスト教は「神の宗教」ではなく、イエス・キリスト教であり、このガリラヤの平民のイエス様に神性が宿っていたこと、神の受肉した方だったことを現しています。

49節には「当たり前だ」という言葉がありますが、これはギリシア語の「デイdei」という言葉の訳です。「必ず~することになっている」「どうしても~しなければならない」と訳されることもあります。典型的なのはいわゆる受難予告です。ルカ9章22節「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。これは「単なる必然」というよりも、「神が定めたことであるから、そのことは必ず実現する」というニュアンスのある言葉です。ですから、聖書で、イエス・キリストの贖いの十字架が罪人であるわたしたちを救うと書かれていたら、それを必ずそうなると信じるのがキリスト教の信仰です。ルターが言ったように、今のわたしたちの行いが正しいとか間違っているとかは関係ないのです。神の約束の必然性だけに的を絞ればいいのです。

50節、両親はイエス様が語った神性の意味が分からなかった。人間誰でも、霊的ではなく、肉の眼、これはギリシア語でサルクスと言いますが、これで見ていると、霊的な真理が見えないし、わからない。日光の三猿のようです。見ざる聞かざる言わざるではなく、見ても見えない、聞いても聞こえない、言おうとしても言えない。それが罪です。罪があるから、嘆いてばかりいるのです。目の前の偉大な恵みが見えないのです。

51節、確かにまだイエス様の言葉を理解できなかったけれど、お母さんのマリアさんには不思議な信仰があった。だから、イエス様の神性に関する言葉をわすれないで心に留めた。ルカ2:19も同じマリアさんの信仰。自分の生んだ子イエス様が、「わたしの愛する子である」という神の子であると理解できた。そして、直接の弟子ではないけれど、霊的な影響を受けた使徒パウロも、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが」(第一ヨハネ3:2)の言葉を理解していました。

最後になりますが、ちょっと怖い話をしましょう。

わたしが千葉で借りている畑があります。色々野菜を作っています。千百坪ですから、約三反です。それは怖くないです。しかし、その畑と裏の林の間に室があります。地下5メートルくらいの洞窟です。夕方、野菜をしまうためにこの穴に入ると怖いです。勿論、地震があって土砂が崩れると生き埋めです。しかし、この室は何十年も、大震災の時も崩れていません。怖いのは、地中に入って、何もない世界になった時に、死んで葬られた世界を想像できるからです。家族もいないし、テレビもないし、光さえない世界です。実際に、穴倉に入らなくても、光のない人生になった時に自殺する人もいます。あるいは心の怒りを他殺に向ける人もいます。要するに、暗く、死に世界に捕らわれているのです。わたしたちも、元気な時は感じませんが、コロナや、治療不可能な病気にかかった時にこの死の恐ろしさを感じるでしょう。別にそれほど困った経験がなくても、人生の最後は穴倉です。聖路加病院の小児病棟で臨床カウンセリング研修を受けた時に、小児癌の子供が死が怖いといっていました。おそらくもう生きてはいないでしょう。その子によると、身近な死とはジェットコースターがどんどん下に落ちていくようなものだそうです。わたしたちの人生も同じです。怖いです。どんどん下に落ちているはずです。しかし、神教ではなくイエス・キリスト教であるキリスト教は、イエス様のわたしたちの罪のための贖いの十字架と復活によって、死が滅ぼされたという教えが中心です。清く正しく生きようなどではないのです。そのように、生きられないからこそ、神の愛を知ったイエス様の愛の犠牲によって生かされるのです。そして、生かされるという事は、「わたしの愛する子である」という神の子であると理解ができることです。それが皆さんのことなのです。コロナ下でこうして礼拝に集まっている皆さんは、特別に神に愛されています。その愛を再度確認したり、初めて知ることが、今回の説教題である「神と共に歩む幸い」であり、「わたしたちの良い点も悪い点も含めて、をわたしたちという唯一無二の、ほかにはない存在として生かしてくださる方の愛に従って、愛を見付け、愛を聞き、愛を語って生活することは祝福の人生である、という意味、」なのです。

それは一人ではできません。イエス様の愛は聖家族に始まりました。神の家族が集う場所、地上の教会は不完全なところもあります。しかし、神の国を先取りして、友人のレオンのお母さんのように親のない子を育てたり、それができる愛の家族です。そこでは「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」という御言葉が通用する共同体です。この菊川教会に与えられた神の家族をこれからも感謝し大切に守っていきましょう。

 

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