聖書研究

パウロの登場とその福音伝道活動の開始

使徒言行録9章1節-22節  文責 中川俊介

これまで使徒たちのさまざまな伝道活動があったことを学んできました。しかし、使徒言行録は、この時点で序論を終わっていよいよ本論に入ろうとしています。12使徒に次ぐ、新しい使徒パウロの登場です。「もしパウロがいなかったら、聖書の半分はなかったでしょう。」[1] イエス様のガリラヤ時代からの弟子ではなく、新しく聖霊の働きによって選ばれた、第二世代の伝道者について使徒言行録はその残りの部分すべてを用いて伝えようとしています。四福音者がイエス・キリストの生涯を扱っているとしたら、それに続く使徒言行録は、パウロの前半生には一切関心を示さず、彼がキリスト教の反対者からどのように最先端の伝道者になり、殉教していったかを語ります。ですから、この書は「イエス・キリストに従うパウロの福音書」と呼んでもよいくらいでしょう。

さて、1節を見ると、ステファノの処刑の際にその場を目撃したサウロ(後のパウロ)は、単にそこに居合わせただけではなく、自らがキリスト教徒の迫害者であったことがわかります。その迫害も、ただ言論統制するのではなく、異端的なグループを根絶やしにするために、殺意を帯びていたことがわかります。であるならば、サウロはすでに何人もの善良な信徒を殺害していたことがわかります。それだけでは満足せず、彼は大祭司の許可を求めて、さらに北部のダマスコ地方に散在するキリスト教徒を弾圧しようとしていました。彼は律法による義を信じていました。「そこから流れでてきたものは、脅迫と殺害であって、教えや反論ではなかった。」[2] エルサレムでの弾圧の後で、近接したサマリヤや、初期伝道地であるガリラヤを弾圧するのなら、事の成り行きを理解しやすいのですが、エルサレムから直線距離で3百キロ近くあるダマスコまでどうして行こうとしていたのでしょうか。一つには、既に迫害を逃れたキリスト教徒が当時の大都市であったダマスコに集結していたとも考えられます。ダマスコには、しかし、司法権は及んでおらず、そこで信者を逮捕してエルサレムで裁判にかけ処刑するという段取りでした。後に愛を説いた彼の姿からは考えられないことです。

実際に、大祭司の許可書を胸に抱いて、サウロはダマスコへの途上にありました。直線でも3百キロですから、陸路をたどれば4百キロ以上あったと思います。ダマスコは乾燥地帯にある都市ですが、近くに大きなオアシスがあってエデンの園のモデルになったともいわれています。このダマスコに近づいたときに、彼は突然光に包まれました。それが、白昼だったと別の箇所にあります。日蓮が処刑されようとした時に、江の島の方向から光が走り、処刑者の刀にあたったというのも有名な話です。決して作り話ではないと思います。何らかの超自然現象があったものと思われました。「後にサウロは自分の口からこの事件の回顧を、公の場所で二度にわたり詳細に陳述しているのである。」[3](使徒言行録22:1以下、26:1以下、参照)ガラテヤ書1:11以下にもこの出来事は記載されています。

サウロは地面に倒れました。光にうたれたのです。「この超自然的な光こそは、旧約聖書でしばしば出て来る神の臨在を表わす栄光です。」[4] 倒れたパウロに、今度は声が聞こえました。4節にあるように、サウロはイエス様の声を聞きました。それは、彼を叱責する言葉や憎しみの言葉ではありませんでした。律法ではなく、むしろ愛に満ちた問いかけでした。サウロが迫害していたのは一般の信徒だったのですが、イエス様の問いかけは、「なぜ、わたしを迫害するのか」でした。それまで、実際のキリスト教徒を捕縛していただけの彼でしたが、ここで信徒たちが信じていた復活の主イエス・キリストご自身に出会ってしまったのです。「ひとりの人とひとりの人として向き合って相対したとき、そこにはじめて出会いがおこるのです。」[5] わたしたちも出会いによってキリストに導かれたのではないでしょうか。その点について皆で話してみましょう。

ただ、ここで最初にサウロは声の主が誰だかわかりませんでした。ですから、彼は問いかけています。5節に答えがあります。それは、まさしく復活されたイエス様でした。おそらく、サウロも、その復活の噂はエルサレムで耳にしていたことでしょう。しかし、信じていたとは思えません。その彼に、復活の主が現れたのです。彼の願望や願いが夢になって現れたのでもありません。むしろ、彼の願いは正反対でした。イエス様のことなど全く信じていなかったのです。しかし、聖書は架空の出来事ではなく、経験と史的事実を大切にします。これは、動かしがたいサウロの経験でした。

6節には、そのイエス様からの命令が記録されています。勿論、ダマスコにはもうすぐ着く予定だったのですが、まず、その町に入れというのです。7節を見ると、サウロは一人ではなかったことがわかります。彼らも声は聞きました。しかし、どうしてよいかわからず、呆然としていたのです。この後、サウロは立ち上がりましたが、目が見えませんでしたので、人の助けを借りて、ダマスコに行くしかありませんでした。「彼は、もう終わりにきた。しかし、それは生きるための死であった。」[6]

9節にその後のサウロの姿が描かれています。3日間見えなかったというのは理解できるとしても、飲食しなかったというのはどうしてでしょうか。あたかも、ヨナが大魚に飲み込まれて3日間死んだようになっていたのと似てはいないでしょうか。それは古いサウロにとってはまさに一つの死の時間でした。彼は自信を失い、天の啓示によって、それまでの自分勝手な律法的信仰が神からのものではなかったと知ったのですから、自分を支えていた世界観がガラガラと音を立てて崩壊したようなものです。

ところで、場面はダマスコ市内に移ります。前にも述べたように、サウロがわざわざ遠路エルサレムから迫害の使命を帯びてダマスコに来たくらいですから、ダマスコには信徒の群れがあったことは確かです。その一人が、10節に書いてあるアナニアでした。彼の住居あとは今でも残っていて、アナニア・チャペルという教会になっています。それはともかく、アナニアに、イエス様が現れ、彼に呼びかけました。11節以下に、イエス様からの命令が書いてあります。それは、「直線通り」という市内の大通りに行き、そこにあるユダの家で世話になっているタルソス出身のサウロを訪ねなさいというものでした。「当時、タルソは、アテネやアレキサンドリアと並んで、世界三大学都として知られていました。そこで、サウロは高度のギリシア文化を身につけました。」[7] その知識が後の伝道に役立ったのです。また「タルソスには、ストイック主義の創始者であるゼノンが紀元前4世紀に住んでいたのである。」[8] それはともかく、実際に、現在のダマスコに行ってもこの「直線通り」は残っていて、ラテン語で同じ意味の、ヴィア・レクタと呼ばれています。これに似た言い方は、ヴィア・ドロローサであり、苦難の道という意味です。そこで、ヴィア・レクタにあるユダの家で盲目となったサウロが祈っているというのです。「パウロはいっさいを奪われて、盲人同様、半病人のようになって、初めて本当の祈りをしました。」[9] 祈りは低い心からうまれます。逆に言うと、神は人の傲慢さを砕いて、真の祈りを与えるのです。「迫害で死んだ者、追われた者、苦しめられた者の祈りが、聞かれる時が来た。」[10] 彼も祈る人になりました。そして、まだ事が起こる前に、そのことの成就を示された訳です。聖書にはそういう表現が多く見られます。

13節にアナニアの答えが出ています。アナニアはサウロが誰であり、彼に何が起こったか既に知っていました。アナニアとしては、一番避けたい人物だったのです。サウロの無慈悲、残酷な行動はダマスコまで知れ渡っていました。ダマスコにも捕縛の許可を持って来たことも知っていました。ですから、彼のような信仰心ある人でも、主の命令にすぐに従うことはできませんでした。余談になりますが、ここで初代のクリスチャンのことが「御名を呼び求める人」と表わされていることは大変に興味深いことです。自分の義を信じているものではなく、主の名を呼び求めるところにキリスト教信仰の神髄があり、それは、自分の信仰が正しいと自己充足しているパリサイ派や律法学者の宗教とは違っていたことがわかります。

アナニアの反論のあと、主は再度語りかけました。今度はさらに強い命令形でした。疑いを持たずに行きなさいというのです。サウロは神がキリストの名を伝えるために選んだ器だというのです。そして、16節にあるように、サウロの人生で、これから歩む道は迫害の道ではなく、イエス様と同じヴィア・ドロローサであり、苦難の道だというのです。これを聞いて、アナニアは主の命令に従いました。「聖書の人びとが、神の命令を行う時、そこには自信一点張りではなく、尻ごみ、たじろぎながらも、主の御声に従ってゆく、服従が見られます。」[11] そこで彼は、ヴィア・レクタにあるユダの家に行き、サウロの上に手を置いて癒しの言葉を語ったのです。ここで大切なのは、体の癒しだけでなく、聖霊の満たしを初代教会が大切にしていたし、それはまさに主の命令だったのです。こういうことが可能だったからこそダマスコの教会は強力だったのでしょう。わたしたちの教会で、聖霊に満たされるとは何なのかを、皆で話してみましょう。

この言葉によって、18節にあるようにサウロに癒しの奇跡が起こりました。そして、エチオピアの高官の時のように、すぐさま洗礼を受け、食事もとれるようになり元気を取り戻しました。罪人の頭が救われたのです。古いサウロがその罪に死に、キリストの贖いによって、新しい命を与えられ、新生したのです。「律法と自責の念で苦しめられていた彼の良心は、神の恵みによって祝福された解放を見出した。」[12]

その後のサウロの行動は、彼の過去を知っている者には信じられないようなものでした。彼はユダヤ教の会堂を巡回して、イエス様こそ神の子であると伝え始めたのです。サウロは教会員となったのです。「だれでも、自分で教会の一員になる者はおりません。教会の一員になるのは、人間の意志や決意によるのではなく、教会のかしらでいます、主イエス・キリストによるのです。」[13] ユダヤ人は、メシアの到来を期待していましたから、サウロの言葉の意味はすぐに分かったと思います。しかし、なぜ彼がこうも極端から極端に振れ動いたのかは理解できなかったでしょう。人々の驚きは相当なものでした。けれども、人々がどんなに敬遠しても、サウロの気持ちは変わらなかったのです。相変わらず、イエス様こそユダヤ人が長く待ち望んでいた救い主であると説いて回ったのです。サウロ自身も単なる暴力的な殺人者ではなく、ガマリエルという高名な学者の門下で学び優秀な学徒であったのですから、救い主の到来こそ福音の根源であることを誰よりもよく知っていた筈です。なんと、自分が迫害していた人々が信じていたイエス様こそ救い主であることを、彼は聖霊の満たしによって、また、直接の啓示によって知ったのです。「聖霊に満たされるということは、伝道することを、結果として産み出します。」[14] 彼には聖霊の喜びがあったのです。「この経験を考察してみるならば、わたしたちも、パウロのように、神が全ての道を共に歩んでくださり、破壊的な怒りを溢れる喜びに変えてくださるのを知るのである。」[15]

[1] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、138頁

[2]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、119頁

[3] 矢内原忠雄、「聖書講義1」、岩波書店、1977年、678頁

[4] 尾山令仁、「使徒の働き上」、羊群社、1980、331頁

[5]  前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、334頁

[6] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、122頁

[7] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、328頁

[8] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、92頁

[9] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、141頁

[10] 前掲、矢内原忠雄、「聖書講義1」、682頁

[11] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、142頁

[12] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、96頁

[13] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、346頁

[14] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、350頁

[15] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、97頁

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