今週の説教

説教「あなたはどこに行くのか」

2020/06/22

聖霊降臨後第2主日説教

「あなたはどこに行くのか」  マタイ9:35-10:15

「われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか?」、という長い題の絵があります。これはフランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて描いた絵です。ゴーギャンの作品のうち、最も有名な絵の一つです。わたしの好きな絵でもあります。さて、ゴーギャンは素朴な生活を求めていまから約130年前、1891年にタヒチに渡りました。タヒチ滞在時代の1897年から1898年に描き上げたこの作品は、もっともゴーギャンの精神世界を描き出している作品と言われています。日本でも数年前に展示されました。

ゴーギャンは、この作品に様々な意味を持たせ、絵画の右から左へと描かれている3つの人物群像がこの作品の、3つの題名を表しています。画面右側の子供と共に描かれている3人の人物はどこから来たのかをあらわし、中央の人物たちは成年期、今誰なのかを意味し、左側の人物たちは「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」であり将来の行くべき姿です。老婆の足もとには「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」とゴーギャン自身が書き残しています。これは日光の東照宮にあるサルの絵図も似ています。

ゴーギャンは神学校の学生だったことがあります。そこでの教理問答の授業がありました。その基本的な問答は「人間はどこから来たのか」、「どこへ行こうとするのか」、「人間はどうやって進歩していくのか 」でした。ゴーギャンは後にキリスト教に対して反発するようになりましたが、若いころに学んだキリスト教教理問答はゴーギャンの頭から離れることはなかったといえるでしょう。彼は貧しく無名のうちに死にました。タヒチで生活費の為に売った絵も薪がわりに燃やされてしまったそうです。でも、彼の「われわれはどこに行くのか」という問いは歴史のなかに消えませんでした。作品として残りました。それは今日でも、宗教的にはわたしたちの大切な問いではないでしょうか。

さて、イエス様の弟子たちの場合はどうだったでしょうか。彼らはどこから来たのでしょうか。福音書の日課であるマタイ9:35にはイエス様が全ての町を訪れて福音を伝えたとあります。弟子たちの出発点はこのイエス様の伝道によるものでした。先週の日課にあった徴税人のマタイの場合も同じでしたね。病気や思い煩いを癒された人もイエス様に従いました。彼らはまさに、苦しみの中から傷ついた羊のようにやってきたのです。ただここで、羊は弱さを象徴するだけではなく、聖書では、昔から神の民を表す象徴でした。ですから、ここには、もとは神の民だったものが、本当の神を見失ってしまい、多くの重荷、罪の処罰の恐れ、儀式の負担などに押し殺されていたことが暗示されています。

では、彼らは何者だったのでしょうか。聖書によれば、彼らイエス様に憐れまれた人でした。ここに書いてある憐れむと言う言葉は、可哀そうだという程度の意味ではなく、相手の悲しみを共感し、はらわたがちぎられるような痛みを覚えるという事です。ここにも、イエス様が苦しむ者と共に実在されたことが感じられます。仮想現実や架空ではないのです。イエス様はその人たちの問題を上からの目線で見ていたのではなく、彼らの重荷を自分の重荷として引き受けてくださったのです。神の愛です。また、弟子たちはイエス様から多くのものを受けました。汚れた霊を癒す権能、病気を癒す権能などです。つまり、これによって、彼らは喜んでイエス様の働きの助手になったと言えます。愛されたからこそ、彼らも愛の人になることができたのです。

その彼らはどこに行こうとしていたのでしょうか。弟子たちの行く先は、失われた羊の場所でした。自分の死に場所ではなく、他者が死んだような姿になっている場所でした。失われた羊とは、先ほど述べたように、神との関係が途絶え、飼う者がいない羊のように、餓えたり病に冒され、孤立して苦しむ者の群れのことです。

イエス様の指示に従って、弟子たちは実際に旅にでました。しかし、この旅は、何も持たない旅でした。ただ、外面だけではなく、内面的にも人間的なものを携帯しないのが伝道です。祈りと愛にだけ支えられて生きて行くのです。彼らの行く先には、温かく迎える者たちと、冷たく拒絶する者たちがいました。イエス様は、拒絶する者はソドムやゴモラよりも厳しい裁きにあうとしています。それは、神の使いを拒絶する者の前で使徒たちが弱かったからでしょう。イエス様は弱い使徒たちを励ましたのだと思います。実際に、伝道は弱い者たちによってなされました。聖書にも、「勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる」(サムエル上2:4)とあります。弟子たちの働きは、自分のどうしようもない痛みを覚えてくださる神に支えられて、やっと立つことができる、弱き祭司としての働きでした。弱くなければ神を伝えられません。しかし、それは霊的な傲慢や、自分には信仰があると考えて、信仰弱きものを下に見るものではありませんでした。祭司の役割は評価する者ではなく、あくまで神に仕え隣人に仕える役割です。わたしたちも評価する者は警戒しましょう。評価する社会は評価する者の役割は裁きであり、見捨てる事や処罰することです。この世ではそれがなんと多い事でしょう。そしてわたしたちも裁く者と変質します。ところが、聖書のイエス様は仕える姿をもって神の本質を伝えたのだと思います。仕えることは人を見捨てず助けることです。善きサマリア人の例話(ルカ福音書10章25節以下参照)を読めばその意図は明白です。ですから、わたしたちも状況が良くても悪くても喜んで隣人につかえていきたいものです。

これまで、わたしたちは弟子たちがどこから来たのかを見てみました。では、わたしたち自身は、どこから来たのでしょうか。そして、わたしたちは現在、何者でしょうか。こうした宗教的問いかけなしの人生は浅薄なものになってしまいます。わたしたちは、神の側から与えられる無代価の救いを信じる時に、病気を癒された者、神との関係が修復された者、つまり罪赦された者として生かされます。しかし、それは強くなったという意味ではありません。相変わらず弱い者なのです。罪の重荷を負うことは依然として同じでしょう。わたしも牧師として長く働いてきましたが、だからといって少しは善人になったとは思えません。しかし、神が見捨ててないこと、必ず救ってくださることを確信できたことは幸いです。結局、神は罪人を救う神なのです。もし、まだそうなっていないとしても、大丈夫です。今日、この時に、神の救い主イエス様に対して、「あなたを信じます」と告白するだけで救われます。そこにはユダヤ教が命じていたような多くの儀式、守らなければならない多くの律法が介在しません。信じた、救われた、という単純な公式です。真理は明快です。現代でも、これでいいのです。わたしも今日も告白します。信じます。まさに、ジュリアス・シザーの有名な言葉、「Veni,Vidi,Vici.」(来た、見た、勝った)と同じです。わたしは来た、見た、信じた、救われたです。今から50年前にある渋谷の教会の集会に出席し、その帰路にあった南平坂の路傍に跪いて初めて祈ったのもこれでした。

そして、わたしたちはどこに行くのでしょうか。12人の弟子たちと同じです。もはや自分の選んだ道をいくのではありません。使徒として、遣わされるのです。それは、もう一度、毎日の生活の場に送りだされることです。そこで祭司、神に仕える者の働きをするためです。わたしたちは食事の準備をする時も、赤ちゃんの世話をする時も、これは神の働きであるとしっかりした意識が必要であり、神はこの働きを喜んでくださると言う確信を持たなければなりません。それがベルーフ、仕事、呼び出された使命なのです。表題に書いた、映画「炎のランナー」の主人公エリックのお父さんは宣教師であり、ある場面で「ジャガイモの皮をむくことでも神の栄光をあらわすことができる」というようなセリフがあって印象的でした。最初に述べた、ゴーギャンは、人生がどこに向かうのかを問い続けました。ルターは教えました、「真のキリスト者は地上にあっては、自分自身のためではなく、隣人のために生き、隣人に仕える。」これが、どこに行くかの答えだと思います。隣人のために仕えること、それは「人々のために神に仕える職務」(ヘブライ5:1)であり、つまり祭司となることです。それは義務であり、それをしなければ魂は滅びてしまうとルターは言っています。旧約聖書の日課に「あなたたちはわたしにとって祭司の王国となる」(出エジプト19:6)とあった通りです。これが、聖書の偉大な預言です。教会は使徒の群れであり、祭司の群れです。キリストの十字架と復活はそのためにあったのです。この印西インターネット教会に集う者は、人種や民族言語、教派、宗教を越えて、仕えて下さる神の愛を感じ、仕える道をあゆませていただくものです。これはキリスト教だけではありません。どんな政府、どんな企業でも隣人に温かい奉仕と便利さを提供するものでなければやがて消えていくものであることを歴史が証明しています。個々の人間もしかり。「あなたはどこに行くのか」

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