神様から与えられる新年のプレゼントを受け取る説教
「黄金よりも貴い宝をあなたに」 マタイ2:1-12
新しい年になりました。昨年末も、町から遠く離れた九十九里の海岸で夜空の美しい星を見て、永遠性を感じました。今回の日課には占星術の学者たちが登場します。彼らは、悪い意味では、魔術師ですが、良い意味では聖なるカルディア人の祭司でした。迷信的なものもあったのですが、古代社会ではすべての出来事が星の支配下に置かれていると信じられていました。星空を見ると彼らの気持ちが理解できなくもありません。占星術の学者は東方の国からやってきましたが、当時の東方とはアラビヤ地方でした。そこの国の一つであるイエメンでは、国王がユダヤ教の信仰を持ったことが知られています。イエメンに限らず、中近東にはディアスポラと呼ばれた、いわば華僑のような海外移住のユダヤ人がいたことが知られています。後にキリスト教が広がった際にも、こうした各地のユダヤ人からの援助があったわけです。
これらの学者たちは救い主誕生の正確な場所は知らなかったようです。しかし、彼らから情報を得たヘロデは不安を感じました。自分の政権が、新しい指導者によって転覆されることを恐れたのです。それにヘロデは純粋なユダヤ人ではなく、エドム人だったので、必死で権力を握ったにもかかららず、民衆からの尊敬を受けていなかったのです。彼が得たかった情報は、メシヤの誕生を示す星が、いつどこで現れたかです。その結果わかったのは、ミカ5:1からの引用でした。しかし、旧約と新約を比較しますと、新約には「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」の部分が見られません。この部分を彼らの時代にあわせて考えて口語で翻訳する、ドラゴマンと呼ばれた註解者がそれを編集したからです。そして、彼らは自分たちの時代のなかで、聖書を解釈していったのです。これは大切なことです。わたしたちも聖書を、わたしたちの時代の中で、わたし自身の置かれた人生のなかで理解していかなくてはなりません。ですから、その時代に語られたみ言葉である説教というものが、信仰生活には不可欠です。特に大切なのは、福音を聞き取っていくことです。
9節にあるように、救い主をベツレヘムで最初に発見したのは異邦人の学者たちでした。もともと神を知っていたユダヤ人たちは、自分たちの為に神を求め、その自己中心性の故に機会を失いました。先の者が後になり、後の者が先になったのです。そこにこそ神の働きがあります。人間がこうであるべきだと思うところを、神は後にして、もっとも相応しくない者を、相応しい者として立てるのです。人生でも、「これだ」と思っていたものが崩壊したり、無くなったりします。それは、神ご自身が、人間の自己中心的な確信を崩壊させるからです。そして、神の確かさを示すのです。権力を手にしたヘロデは自己中心的な知恵と策略によって滅んだのです。
パウロは「キリストのために愚か者になる、弱い者になる」(第一コリント4:10)ことの大切さを教えています。ユダヤ人から見たら、占星術の学者などは小さな存在だったでしょう。しかし神は、彼らに最初に救い主を、喜びに溢れて礼拝する特権を与えたのです。わたしたちが礼拝に出たり、説教を聞くのはどうしてでしょうか。ひと皮剥けば、わたしたちもヘロデのように人間的に必死で生きてきた、罪深い存在かもしれません。でも、ヘロデと違って、こうしてみ言葉に触れていることは、神が恵みにいれてくださった確かなしるしです。わたしたちの功績によるのでなく、神の憐れみです。自分で選んで礼拝にでているように錯覚するときもあるかもしれませんが、コロナ禍にある時には、喜んで礼拝できるという事は神の奇跡であり、神の与えた特権であることを痛感します。
11節には彼らの礼拝と、捧げもののことが書いてあります。随分昔に、日本人の牧師と外国の宣教師が二人で礼拝の時をもったそうです。すると、宣教師がポケットからお金を出して献金をささげたそうです。不思議に思った日本人の牧師が聞きました。二人だけの礼拝なのだから、祈りで十分ではないのか。宣教師はいいました。捧げるもののない礼拝はありえません。ヘブル書11章には信仰と、捧げものの関係が書かれています。アベルもカインも捧げたのですが、アベルは信仰の喜びから、自分の最高の肥えた家畜を捧げた。神はカインの捧げものには目をとめなかった。本当の感謝と信仰から来るものではなかったからでしょう。その点では、東方の占星術の学者の捧げものは神のみ心に叶うものでした。黄金は、王の印でした。乳香はバルサム、ミルラとも呼ばれました。歴史家ヨセフスによると、これをユダヤ人の地に最初にもたらしたのはシバの女王だったそうです。礼拝の印であるお香です。また、没薬はマルコ15:23でぶどう酒に混ぜて飲まれたことがわかります。埋葬の印でした。つまり、3つの宝物は、王、礼拝、埋葬の象徴であり、王の王である幼子イエスが、これから、人類の罪の贖いの為に、十字架にかかって処刑されること、この処刑された方を救い主として礼拝することが予告されているのです。聖餐式の聖卓が礼拝の中心であるのもこのためです。神の側にたって礼拝すること自体が、一つの奇跡ですが、その時には十字架を引き受ける覚悟が生まれます。キリストが心の中に誕生するのです。それがなくては、罪を示されないで説教を聞くこと、あるいは、悔い改めなしに聖餐を受けることになります。十字架のない信仰とは、塩味のない塩のようです。礼拝とは、犠牲と無関係ではないく、講演会ではないのです。この方を礼拝すること。この方が我が人生の中心となること。黄金よりも貴い宝をこの方に、捧げたいと願う事、そこに礼拝と救いがあるのです。コロナだけでなく、様々な不幸や困難をもたらす、悪魔の茶番劇に、振り回されないことが大切です。人を非難し、自分を正しいとする悪魔を信じないことです。むしろ、自分は罪深く、自分は正しくなく、弱く滅びる存在にすぎない、と思うところに救いの光が届きます。つまり、愛の神は絶大な励ましと喜びをもって、滅ぶべき自分を拾い上げてくださったことがわかるのです。
パウロもエフェソ書3:8で「恵みが、最もつまらない者であるわたしに与えられました」と語っています。この過程の中で、「誤った信仰を持つ者は明らかにされ、神のみ言葉を認識する値打ちのないものは、つまずかされ、かたくなにされることをわたしは知っていますし、確信しています。」とルターは述べています。新しい年に、新しい礼拝ができることは、まさに神の憐れみの証拠です。
別の道を通って行ったというのは、わたしたちをキリストから引き離す悪魔の力、アドバイス、脅かし、噂話などに耳を傾けてはいけないということです。わたしたち一人一人はイザヤ書60章にあるように、晴れやかな心で、主の栄誉を述べ伝える者として選ばれています。ヘロデのような「拝みにいこう」と言うだけの自己中心性から神中心、恵み中心に変わることこそが神の恵みです。キリスト教の喜びは、健康とか、所有とか、幸運を基にしたものではなく、神の子イエス・キリストが、この世に生まれ、わたしたちの兄弟となり、限りない悩みと苦しみを生む罪を取り除いて下さったことにあります。この喜びは、自分の罪を知り、その救いがイエス・キリストの十字架にあることを信じるすべての人に与えられます。それは、この世の黄金よりも貴い宝です。それが新年の恵みであれば素晴らしいことです。
人知ではとうてい計り知れない、神の平安があなたがたの心と思いを、イエス・キリストにあって守って下さるように。