聖書研究

12使徒ではなかったパウロが使徒となっていった背景

使徒言行録9章23節-43節  文責 中川俊介

回心したサウロはユダヤ人会堂をまわってイエス・キリストの福音を伝えました。その間には様々な経験があったものと思われます。彼は後に書いていますが、ダマスコの東にあるアラビヤ砂漠でも時を過ごしました。「イエスがヨルダン川でバプテスマを受けた直後、砂漠地帯に退いて、今後公の宣教活動に従事するについての心固めをし給うたように、異邦人の使徒としての召命を受けたパウロも、先ず荒野に退いて神と交わり、神の御声を聞いて心の準備をととのえたのであろう。」[1] ただ、彼の行動を良く思わなかった人々も少なくはなかったでしょう。23節以下にユダヤ人の陰謀について書いてあります。彼らは執拗にサウロの命を狙いました。城門には彼を殺そうとしていた人々が見張っていたのです(第二コリント11:32以下参照)。ですから、サウロは城壁で囲まれた市内から出られなかったわけです。そこで、25節にあるように、サウロは自分の弟子に手伝ってもらって、夜陰に乗じて、籠に乗せてもらって城壁から降ろしてもらったのです。一種の冒険行動のようなものです。こうして、サウロはダマスコから脱出できました。

ダマスコを離れたサウロはエルサレムに戻りました。「ガラテヤ人への手紙を通して、私たちは、パウロが三年後にエルサレムにもどってきたことを知る。」[2] 彼がエルサレムを出発した時は迫害の熱意に燃えていたのですが、帰ってきた彼は、キリスト教の伝道者になっていました。しかし、エルサレムのクリスチャンたちは、サウロの回心の状況を詳しくは知らなかったので、迫害者が帰ってきたと思って、怖れました。しかし、神は助け手を与えられました。バルナバです。以前、全財産をささげた者として登場したバルナバ(使徒言行録4:36)が、その名前の意味(慰めの子)のように、仲介者となり、サウロを使徒ペトロとヤコブに紹介し、彼の回心のいきさつを説明したのです。「自分を捧げる人のみ、真に私心なく人を愛することができます。」[3] 慰めとは、ギリシア語でパラクレートス、つまり聖霊と同義語でもあるのは興味深いことです。使徒言行録が実は聖霊の働きの証し書である所以ともいえるでしょう。「そのことは、のちにパウロの活動の継続にとって、重要な意義をもっていた。」[4] 使徒たちはバルナバの証しを信じました。もはや、サウロは敵対者ではなく同志として迎えられたのです。その出会いに関してパウロは後に「彼が人間からキリスト教を継承したのではないことを強調している」[5] という点が大切です。たとえ使徒であっても、その教えにパウロが感化されたのではなく、ダマスコ途上でのイエス・キリストとの直接的な出会いが彼の転換点となったことは確かです。28節にあるように、サウロはエルサレムでも福音を大胆に伝え始めました。彼は、ギリシア語を自由に話せましたから、教養あるユダヤ人、特に彼が以前親しくしていたリベルテン会堂のメンバーとともにギリシア語を使って討論したことと思います。それはかつてステファノが議論した人々でもありました。そこでの中心的な論題は、イエス様が救い主であるかどうかということでした。しかし、この自由さが、またサウロの命を危険にさらすことになりました。もし、そのままエルサレムに滞在したらサウロは殺され、新約聖書の多くの部分が書かれないままに終わったでしょう。しかし、それは神の御計画ではなかったようです。エルサレムのクリスチャンたちはサウロのことを大切に扱い、彼を守りながら海岸の町カイサリアへ下り、そこから彼の故郷のタルソスへと送り返したのです。タルソスは「紀元前171年にシリア王のアンティコス4世から市民自治権を受けた都市であり、紀元前64年にはローマ帝国の自由都市としての地位を受けている。」[6] ですから、ここに生まれたサウロも、ローマ帝国内を自由に旅する権利を持っていたローマ市民だったのです。それにしても、当時のサウロとしては、まだエルサレムで伝道したかったかもしれませんが、神の御計画には引きどきもあるのです。この点を皆で考えてみましょう。

31節から、新しい状況の説明が始まります。サウロに関してはしばらくお休みです。教会は迫害を避け、逃げる者は逃げ、残る者は残り、エルサレムだけでなく、イスラエル全土で平和を保つことができました。それはローマ帝国内の状況変化によるもので、人々は国内のキリスト教の問題にではなく、ローマの政治的・宗教的な圧迫に苦しみ始めたからです。ユダヤ教の分派と考えられていたキリスト教はローマ帝国がおし付けてきた皇帝崇拝などに比べれば微々たるもののように思われたからです。後のユダヤ戦争(66年~74年)の兆しが既にあらわれていたのです。それはそれとして、この時期に主への畏敬の念が増し、聖霊の慰めが豊かに与えられました。これは、教会の成長にとってとても大切な二つの要素ではないでしょうか。第一に、畏敬の念が生じたというのは、イエス様の時代と同じように、神のみ名による癒しや奇跡が行われ、人知を超えた神の働きに人々の頑なな心が悔い改めに導かれたのです。「人間が入信するのは、いつでもそれまでの人生観が行き詰って、それが崩れ、新しい人生観が打ち建てられるわけです。」[7] また、そうした畏敬だけでなく、神の慈愛というのでしょうか、罪ある者に対する冷酷な裁きではなく、バルナバの行動に見られたような心からの慰めが溢れたのだと思います。「多くの場合、人々は自分中心であるがために、教会は建てられていかず、前進もしていきません。自分が暖かく迎えられるかどうかということが、最大の関心事だからです。」[8] そうではなくバルナバのように、人ではなく神の愛を見上げることが大切です。また、伝道の対象が純粋なユダヤ人だけでなくサマリアの人びとにも向けられていたことも重要です。イエス様の願いが実を結んで行ったのです。やがて、それはパウロを通してローマ帝国内の異邦人伝道となって拡大していきます。

さて、32節には、ペトロのことが書かれています。サウロを神が準備したと同時に、ペトロも異邦人伝道のために準備したのです。「ルカの関心は、ある意味では、最初から、異邦人伝道ということであったようです。」[9] ここで彼が下って行ったリダとは海岸の町ヤファに近い場所にありました。そこにも既に信徒がいたわけです。34節にあるように、ペトロは中風で8年間も苦しんでいた人を、イエス・キリストの名によって癒すことができました(ルカ5:24-25参照)。「この癒しが、イエスの名によってなされたことが重要な点である」[10] おそらく、彼は長い間、自分では立つこともできなかったのでしょう。その彼に、ペトロは神に信頼して自分のことは自分でしなさいと命じたのです。そのことは、病人のアイネアだけでなく、町の人全体にとって大きな衝撃でした。イエス・キリストの名に対する畏敬の念が生じました。理論とか、理屈ではなく、現実における神の働きを強く感じたのです。そして彼らはそのような驚くべき功績を自分に帰することなく、イエス・キリストの名に帰したのです。35節の「主に立ち帰った」という表現は、回心したという意味です。「使徒行伝にはこの表現が多くあります。」[11] 人間の常として、自分の力や自分の義に立ちやすいものですが、自分ではなく、神に帰依するという事が回心であり、方向転換であり、悔い改めでもあります。癒し自体ではなく、この点を作者のルカは強調していると思います。人々の間で信仰に立った畏敬の念が生じたのです。逆に言うと、こうした畏敬の念なしの信仰は、己を空しくした神への帰依の信仰ではなく、自己中心的な信念のようなものになりやすいものです。たとえ、癒しの奇跡がなかったとしても、わたしたちが主のもとに立ち帰るならば、それこそ偉大な奇跡といえるでしょう。この点について皆で話し合ってみましょう。

次の癒しの舞台は、リダから遠くないヤファです。ヤファという町は昔からユダヤ人になじみの深い町であり、エルサレムを囲む城壁にある門の一つもヤファ門(使徒言行録2:3参照、美しい門)と命名されていたくらいです。おそらく、以前、フィリポがガザからカイサリアへと海岸地帯を伝道した際にも、きっとヤファでも良い働きをしたことでしょう。そうした積み重ねがあって、ペトロがそこに行った際には既に弟子たちが存在したわけです。ドルカスという女性信徒もその一人でした。彼女はその慰めに満ちた働きによって敬愛されていた人物でした。「ここでもまた、教会はとりわけ、やもめたちのために援助をしていたことが、明らかにされる。」[12] ところが突然病死してしまいました。当時の習慣なのでしょうか、遺体を清めて安置しておきました。ペトロがヤファの近くのリダまで来ていることを知った信徒たちは、使いを送ってペトロに来てもらいました。それは急いでなされました。ですから、葬儀のためではなく、蘇生のためだったのでしょう。ペトロならこの奇跡が起こせると信じていたのでしょう。39節にペトロがドルカスの家に到着した時の様子が描かれています。ドルカスは優しい思いやりと慈愛溢れた信仰心で、貧しい人々や苦しむ人々を助けたのでしょうが、そのようにして助けられた寡婦たちが遺体となったドルカスを所狭しと囲んで集まっていました。そして、ただ泣くだけではなく、そこに到着したペトロに彼女が手作りしてくれた愛のこもった衣料品を見せてくれたのです。「ギリシア語の表現は、これらの衣料品は彼らが実際に着ていたものであることを示しているようである。」[13]この箇所を見ても、愛というのは単なる概念ではなく、実際に時間をかけ愛をこめて作ったものに凝縮していると感じます。わたしたちの主に対する愛は、教会に置いてどのような形で凝縮しているかを皆で話し合ってみましょう。

40節に、ペトロの行動が書いてあります。ペトロは女の人たちの話を聞き終わると、彼らを部屋から出し、静かに祈り始めたのです。それは葬儀の祈りではなく命の復活のための祈りでした。そして、彼の先生であったイエス様が以前行ったように、死者に向かって呼びかけ、「起きなさい」と命じたのです。「起きなさい」という言葉に神の力がありました。当時の日常的なヘブライ語であった、アラム語では彼女はタビタという名前でした。ですから「タビタ、起きなさい」という言葉は死者の霊を再生したのです。彼女は目を開け、ベットの上で身を起こしました。そして、41節にあるように、ドルカスを立たせて、部屋の外にいた信徒たちを呼び寄せたのです。その時の人びとの驚きと、喜びはどれほどだったでしょうか。愛する者が命を吹き返したのです。そして、神がペトロの祈りを聴いて下さったことに畏敬の念が生じたことでしょう。「この記事を読む者は、誰しもイエスが会堂司ヤイロの娘を死よりよみがえらせ給うた奇跡を思い出すであろう。」[14](マルコ5:35以下参照)その場合の、「タリタ、クミ」と、ここでの「タビタ、クミ」では一字違いにすぎません。「ペトロは、イエスのように、病の癒し主としてだけではなく、死者を生き返らせたものとして記憶に残されたのである。」[15] 当然のことでもありますが、リダでの癒しの出来事以上に、ヤファではこの出来事がきっかけとなって大勢の人々が主に導かれました。その後、暫くの間、ペトロは皮なめし職人シモンという人の家に滞在することになりました。皮なめしと言えば、その工程ででる臭気のために人々から嫌われていた職業でした。社会の底辺といってもよかったでしょう。しかし、イエス様が社会の底辺の人びとと喜んで交わったように、ペトロもイエス様の霊に導かれていたといえます。また、当時の伝道者が、定住することなく仮住まいの形で、訪問した場所で福音を伝えたことがわかります。現代の教会はそうした流動性をあまり持っていないのかもしれません。再考すべきことのように思えます。

[1] 矢内原忠雄、「聖書講義1」、岩波書店、1977年、685頁

[2]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、128頁

[3] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、146頁

[4]  前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、129頁

[5] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、175頁

[6]  F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、208頁

[7] 尾山令仁、「使徒の働き上」、羊群社、1980年、352頁

[8]  前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、360頁

[9] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、362頁

[10] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、179頁

[11] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、150頁

[12]  前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、134頁

[13] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、179頁

[14] 前掲、矢内原忠雄、「聖書講義1」、695頁

[15] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、102頁

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