埼玉県川口市の大学で教えていた時のことである。駅から大学に行くには川の土手沿いに歩いていくのが一番早かった。その川には、高くはないが比較的幅広い橋が架かっていて、その橋の下にはホームレスの老人が小屋を建てていた。土手の他の場所とは違って、小屋が設置してある橋の下はコンクリートで舗装してあり、雨が降っても湿らないような快適な環境に見えた。彼の家の前の庭(?)にはコンロが置いてあり、夕方に大学の授業を終えて帰るときには、このホームレスの人が外で魚を焼いているような、のどかな風景も見られた。小屋の横には、古い自転車が置いてあり、それできっと買い物などに行ってるのだろうと思っていた。その大学には週に一回ぐらいしか行かなかった。特に気にしていたわけではないけど、毎回、土手沿いの道を通るたびに、ホームレスの人の生活の変化が伝わってきた。寒くなってくると、暖房も十分ではない小屋の中で、どうやって暮らしているのかなと心配にもなった。しかし、そうした懸念は突然に終わってしまった。ある寒い雪の朝、土手沿いの道をゆくと、いつものような静寂はなかった。河川敷には救急車や警察などが入っていて物々しい雰囲気だった。何か事件が起こったようだった。次の週に同じ場所を通ったら、何年も見続けてきたホームレスのホームは無くなっていた。あのホームレスも亡くなったのだとわかった。あの寒い雪の日にたった一人で死を迎えた彼は幸せだったのだろうか。そんな思いが心に浮かんだ。ホームレスの家の跡をみると、コンクリートの面に青黒いシミだけが残っていた。あれは彼がこぼした食用油のあとだろうか。それとも彼が吐いた血のあとだろうか。自分には分からなかったが、そのシミが、かつてここでのんびり暮らしていた彼の小屋の唯一の痕跡だった。そして、自分は思った。これは彼の幕屋(テント)だったのだ。ひいて言えば、誰の人生も幕屋の人生ではないか。ホームレスの彼はたまたま橋の下に暮らしてはいたが、誰の人生にも寒い雪の日が来るし、亡くなって所有物が撤去される日が来る。これは人生そのものだ、そう自分には思えた。そして、聖書にも同じことが書いてあった。テント職人として自活しながら伝道していた、使徒パウロの言葉だ。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住かです。」(第二コリント5章1節)どんな人生の紆余曲折があって、ホームレスになった人だか知らないが、この痛ましい魂を迎え入れてくれる天の住かがあることを願ったことだった。また、わたしたちの人生も、神の家に帰るまでは、流転のホームレスの生活に過ぎない。そう思った。東京に久しぶりに大雪が降った日の小さな回想である。